2003年04月05日(土) |
『花と…鬼と人と 2』(オガヒカ小ネタ) |
ヒカルが目を覚ましたのは、緒方が中央自動車道に入って、諏訪湖のSAに車を停めた時だった。
「……ここ…どこ?」 見覚えのない景色に目をこすりながら訊ねる。
「諏訪湖のSAだ。…さっきよりは顔色もマシだな」 ほらよ、と緒方はスポーツドリンクのペットボトルを手渡す。ヒカルはそれを受け取って、一口飲み、喉をうるおして一息ついた。 「……ん。さっきよりだいぶ楽。微熱でもあったのかな」 ちょっと汗かいたみたいだ、とヒカルが自分の襟元をぱたぱた扇いでいると、緒方はすい、と右手をヒカルの額に乗せた。 「棋院を出た時よりはかなり下がってる。…よし、風呂行くぞ」 緒方はヒカルの手からペットボトルを奪い取り、自分も一口飲んでから蓋を閉め、ラックに置いてから外に出ようとした。
「へ?だってここ、高速道路だろ?」 きょとんとしているヒカルに緒方はニヤリと笑う。 「諏訪湖のSAには、温泉があるんだよ。汗流すくらいなら丁度いいだろ」 後ろのシートから、着替えの入ったらしき鞄を手に、緒方はさっさと車を降りる。そのまま呆けていると本気でおいていかれそうだったので、ヒカルも慌てて彼の背中を追った。 その後で、緒方の車が「トン」と音を立てた。リモコンでロックした音だ。 ヒカルの視線の先には、愛車のキーを持ったままの緒方が立っていた。 急かすでもなく。構うでもなく。 ただヒカルが歩いて来るのを、いつものシニカルな微笑みを浮かべたままで。
まだ本調子ではないから、と本当に軽く汗を流す程度にしか入らなかったのだが、温泉の効果は覿面で、ヒカルはほこほこと温まり、緒方が用意した着替えにあたたかくくるまった。
「ちったぁ何か食いたくなったか?」 緒方は自分用にベーカリーでパニーニを購入した後訊ねると、ヒカルは赤い頬のままにこりと笑った。 「さっき売店で見た『リンゴのソフトクリーム』、おいしそうだったんだけど……」 ヒカルの答えに緒方は顔をしかめる。 「あのな……せっかく温まったところに何で冷えるモンなんだよ……」 「……だめ?」 上目づかいに、ため息、ひとつ。
「…ま、食欲が出ただけでも良しとするさ。ほらよ」 緒方はヒカルに、コインケースを投げて渡した。 「それで買ってこい。それと、ブラックの缶コーヒーもな。…砂糖入りなんぞ買ってきたら車に入れないから、そう思え」
言い捨てて背を向ける緒方に、ヒカルは目を丸くして、一瞬後、くすくすと笑った。対局が終わって、半ばさらうように自分を連れてきたのは、緒方の方なのに。 …なのに、コーヒーの種類を間違えたら車に乗せないという。 以前、「微糖」の文字にだまされて緒方にコーヒーを買って、何も言わずに一口かぷりと飲んでしまった、あの事を忘れてないからなんだろうか。(結局一口で「甘い!」と宣言し、残りはヒカルが飲む事になった。確かに、ヒカルが飲めるほど甘かった) 何か、どう考えても、「いい大人」のすることじゃない。 それがまた緒方らしくて、どうにもこうにも笑えてくる。
ヒカルは何とか笑いをおさめて、自分には先程目をつけておいた『りんごのソフトクリーム』を。緒方には「無糖」のコーヒーを買いに行った。
……ふと、思い出すのは、千年も生きているくせして、全然大人らしくなかった、彼のこと。 本当に「子供」だった自分と、本気で喧嘩して。子供だった自分を困らせて。…そして、本当に「子供」だった自分を、その傲慢さを、受け止めて消えてしまった、花のように美しく、囲碁には、鬼のように厳しさと鋭さを持った―――やさしいひと。 いまはもう、とおいひと。
……彼は消え、自分は生きている。 あのひとは、ずっと、生きて、碁を打ちたがっていたのに。
…身体は、ほこほこと温かい。温泉の匂いと、真新しい衣服に袖を通した、心地よさ。 なのに……心の奥で、凍り付いたままの、泉のような存在を感じながら。 ヒカルは、緒方のコインケースを握りしめた。…そして、何とか歩み出す。
今は4月……。
佐為が消えたあの日まで、もうすぐ。
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