2003年04月04日(金) |
『花と…鬼と人と』(オガヒカ小ネタ) |
「旅行に行くぞ」
『……この一言で、進藤ヒカルは日本棋院での対局後、緒方十段・王座に拉致られた』 ――との証言は、新進気鋭の若手の一人、和谷三段の証言によるものである。 とにかく、対局を終え、検討も終え、あまり体調のよくない同輩、進藤ヒカルを気遣いながら帰ろうとした時、棋院のど真ん前に停まっていたのは、ヴィンテージレッドのRX−7だった。 そんな派手な車を囲碁の日本棋院に駐車する人物など、棋界広しといえども一人しかいない。白のダブルスーツに身を固めた、緒方十段・王座。その人しか。
「旅行に行くぞ」 「……え?」 「もう予約してある。…来い」 「へ?何で?どこに?」 とまどうヒカルの腕を掴み、緒方は強引に車へと引きずってゆく。 この時期――4月から6月の梅雨が明ける頃まで、何かの周期のように、ヒカルは体調を崩す。現に今日だって、勝ちはしたものの、あまり顔色はよくないし、ふさぎこむように口数も少なかった。そんな状態のヒカルを強引に連れ出そうとする緒方に、和谷は思わず一歩踏み出した。
「緒方先生、コイツ…今日は体調が良くなくて」 「そんなもん、見れば分かる」 眼鏡の奥で、まるで対局の時のような鋭い視線が和谷に向けられた。 頂点での、戦いを知る者の気迫と、威圧。 和谷が一瞬ひるんだ隙に、緒方はヒカルを引き寄せ、ヒカルの体を自分に凭れさせて、髪を撫でる。
「……きついか?」 「………ん…………」 「車に乗ったら、少し眠れ。すぐに着くから」
和谷は、弱々しく頷いたヒカルの額にうっすらと浮かぶ汗を見つけて、呆然とした。 そんな体調で、対局していたのか。なのに彼は最後まで打ち切り、勝ちさえしたのか。昼休みや帰り際、それでも弱々しく「大丈夫、大丈夫」と微笑んでいたけれども。本当は、立っているのすらつらかったのかもしれない。 …自分には、気付けなかった。
和谷が立ちつくしている間に、緒方はさっさとヒカルを助手席に座らせ、運転席へと回った。
「和谷ぁ…ごめんな」 紙のように、白い顔。そんな顔で、微笑んでほしくなかった。 笑顔が痛いなんて、はじめて、知った。 「いいよ。旅行にでも行って、気晴らししてこい」 これ以上ヒカルに気を使わせないように、和谷も、無理して笑ってみせた。 「イイもん食って来いよな。緒方先生っていうでっかい財布と一緒なんだから」 「うん」 エンジンがかかる。ロータリーエンジン特有の、低く丸い音。 「土産、楽しみにしてるぜ」 和谷の言葉にヒカルは笑うと、小さく手を振った。
…そして、赤い車は、他の白い車たちにまぎれて、小さくなり、見えなくなる。
車が見えなくなるのをぼんやりと眺めながら、 なんとなく、和谷は「悔しい」という気持ちが湧きあがってくるのを止められなかった。 自分ではどうしても見つけられなかった一手を、他の棋士にあっさり指摘された。 そんな悔しさに、似ているようで……違うかもしれなかった。
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