petit aqua vita
日頃のつぶやきやら、たまに小ネタやら…

2003年03月04日(火) 『初心者マーク 3』(オガヒカ小ネタ)

天婦羅屋の「かんの」の料理は相変わらず美味しかった。ヒカルと緒方は旬の素材を使った天婦羅に満足し、主人自ら朝掘ってきたという筍ご飯に舌鼓を打った。主人の話では、もう少ししたら、山菜をメインにしたコースを、夜の時間に用意するらしい。その話に、ヒカルは一も二もなく予約を入れようとした。

「…おい、俺の都合はおかまいなしか」
「え、この日は大丈夫だよ」
「何?」
「だってこの日、本因坊リーグ戦じゃん。俺の対戦相手、緒方さんだもん」
ヒカルはけろりと笑ってみせる。
「…だからさ、検討を早く終わらせれば、ここでゆっくり食事できるよね」
邪気のかけらもない様子に、緒方は眉をひそめた。
まったく、こんな事ををヒカル以外の人間がやったのだとしたら、明らかに盤外戦もいいところだ。その日、お互いのどちらかが勝者となり、一方は間違いなく敗者となるのに、そんな状態でメシを食おうという。桑原本因坊が言ったのなら明らかに作為あっての事だが、ヒカルの場合は、全くの天然だ。
……だからこそ始末が悪い事もあるのだが。

「じゃあ、その日はお前が運転しろよ」
「えーなんで」
「せっかくの免許だ。練習する機会を作ってやってるんだから、ありがたく思え」
「……緒方さん、お酒が飲みたいだけじゃないの?」
「それもあったな。主人、美味い地酒を用意しておいてくれ」
主人は笑って了解した。ヒカルは不満気に口をとがらせる。
「ずっるー」
「早く大人になることだな、未成年」
緒方はニヤニヤと笑い、先程の意趣返しをしてみせた。
「今年の10月で二十歳だよ!!…ったくもう」
自分の童顔を気にしているヒカルは、緒方の狙い通りに反応し、拗ねてみせる。…だから、そういう所が子供っぽく見られるのだが、緒方はあえて何も言わない。ヒカルのそんな表情も、結構気に入っているので。わざわざ指摘して自分の楽しみを減らすなどという愚行はしない。

「あ、じゃあさぁ、運転は俺がするから、緒方さんの車運転させてよ」
「何?」
…またもや、緒方の眉がつりあがった。
「気をつけて運転するからさ………ダメ?」
カウンターに頬をつけて、下から緒方の顔を上目遣いに覗き込んでくる。
最近は少年らしさも抜け、「可愛い」というより「綺麗」という印象が強くなったヒカルだが、首をかしげ、緒方を見上げるヒカルは、間違いなく可愛らしかった。
……一瞬、緒方が手拍子で頷きそうになったくらいに。店の主人が夜の仕込みがあるから…と厨房へ下がって行ったのは、幸いだったかもしれない。

「………………」
「ねー、いいだろ?」
もう少しそんな恋人を見ていたい、と思う緒方の男心を、誰が責められようか。
「俺さ、RX−7、一度運転してみたかったんだ」
結局は願いを聞いてやるつもりだが、焦らす作戦に出た。

ヒカルは焦れて緒方の腕を掴んで揺する。
「お願いだから……いいでしょ?」
……このヒカルの台詞が、緒方の脳の中で別のシチュエーションで再現されていることは間違いない。

「…RX−7に乗ってても、煽られたりしないように初心者マーク貼るからさぁ」

この一言に、緒方は妄想から帰ってきた。
初心者マーク。
そう。黄緑色と黄色に彩られた、若葉マーク。
アレを、自分の愛車、ヴィンテージレッドの硬質な輝きを誇るあの美しい車体のフロントとテールに貼るというのか。あの、若葉マークを。
緒方は黙って席を立った。

「緒方さん?!」
慌てて追ってくるヒカルがついてくるのをさりげなく確認しながら、緒方は会計を済ませ、外へ出た。
スタスタと、若葉マークが目に眩しいスターレットへと向かう。
運転席の直前で、足を止めて、振り返った。

「ヒカル」
「……え?」
緒方は無言で手を伸ばし、ヒカルはちょっと考えて、車のキーを渡した。
緒方はそのまま運転席に座ってしまったので、ヒカルは反対側の助手席に座る。緒方は相変わらず黙ったままで、窓を開けて、煙草に火をつけた。(店の中では吸えなかったので)
ヒカルはちょっとマズかったかな、と後悔した。緒方が自分の愛車をこよなく愛しているのは、棋界でも有名な話である。そしてその車は、誰であろうと、運転はさせない、というのも定着した伝説だ。
「……ごめん。もう、緒方さんの車運転したいなんて、言わないから」
だから何か言って。
――この沈黙は、痛すぎるから。

緒方は紫煙を吐き出すと、先程までの様子とは違い、俯くヒカルの頭に、手を伸ばした。
「…別に、お前に運転させないなんて、言わねぇよ」
もう一度煙草をくわえ、深く吸ってから、吐き出す。
「ただし、一年間待ってくれ」
「うん…やっぱ初心者じゃ、危ないよね」
「違う」
「へ?」
意外な返答にヒカルは顔を上げ、緒方は煙草をもみ消した。
「運転技術からいけば、お前は芦原なんかよりずっと丁寧な運転をするし、交差点のど真ん中でエンストさせるアキラ君よりも、余程安心できる!」
緒方の目は真剣だった。
「だが、ヒカル!」
その真剣さに、つられたヒカルも息をのむ。

「俺のRX−7に初心者マークを貼るのだけは、勘弁してくれ!!」

………色をつけたら白く染まりそうな、沈黙が、時を止めた。

そして、爆笑。
「あはははははははははは!!!…く…苦しい……っ…くくくくく……」
「こらヒカル!笑い事じゃないぞ!」
爆笑するヒカルをよそに、緒方は反論しながらエンジンをスタートさせ、車を走らせ始めた。
「…や……そ、そりゃそうだ……RX−7に初心者マーク……あはははは!!」
腹を抱えて笑いころげた後、こみ上げてくる笑いを何とかおさめ、ヒカルは涙を拭きながら頷いた。丁度、赤信号で車が止まる。
「わ、分かった……じゃ、その日は対局の後、この車でデートしようね♪」
「デート?」
ヒカルはにこりと笑った。
「好きな人とドライブして、美味しいものを食べに行くのは、デートって言うんじゃない?違う?」
緒方も笑った。
「…違わないな」
その答に、ヒカルはひょい、と体を伸ばして、緒方の唇に触れるだけのキスをした。

「安心してお酒飲んでいいよ。緒方さんが寝ても起さないような運転するからね」
「ほう……ドリフトもできない初心者が生意気な」
「…だから普通に運転するのにドリフトなんて必要ないってば!」


信号が青に変わり。
初心者マークをつけた白いスターレットは、スムーズに発車した。


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