2003年02月25日(火) |
『初心者マーク』(ヒカ碁小ネタ。ヒカル19歳) |
重苦しい沈黙が空気を支配し、 ただ、パチリ・パチリと石が寄せられ、整地されてゆく。 床の間には、「深山幽玄」 日本棋院の、最も位の高い一室で、日本屈指の若手棋士がふたり、対峙していた。
「一目半差で、後手、進藤五段の勝ちとなります」
記録係のおごそかな一言により、19歳対19歳、史上最年少のふたりで争われた天元のタイトルは、搭矢アキラから進藤ヒカルへと渡された。 アキラは天元・王座と二つのタイトルを手にしていたのが、これで王座のみとなる。一方、ヒカルは、早碁選手権・竜星戦は制していたが、八大タイトルを取るのはこれが初めてであった。 若手ながら、囲碁界を担う二人の棋士。戦いが終わってゆっくりと息をつく彼らとは別に、記者やカメラマンたちは興奮の面持ちでシャッターをさかんに切った。
「進藤!よくやったぞ!!」 上機嫌でモニター室から幽玄の間に顔を出したのは、打倒搭矢門下で有名な、森下名人だった。彼は先日、緒方十段碁聖より名人位を奪取したばかりであり、続いて自分の研究会に所属するヒカルが、搭矢アキラからのタイトルをもぎ取った。わが世の春とばかりのご機嫌さである。 「森下先生!見てたんですか」 弟子を祝福する師匠の図(正確には師弟関係ではないのだが)…というオイシイ構図に、カメラマンはさらにフラッシュをたく。 「おう!これでオメェもタイトル保持者だ!しっかりやれ!!」 ばしん、と勢いよく森下はヒカルの背中を叩く。その痛みに顔をしかめてものの、これも祝福の痛みだとヒカルは辛うじてこらえた。 「それからよぉ、進藤。あの車、お前にゆずってやるぞ」 「え?!先生、マジ?!」 「お前、先週免許取れたばかりだろうが。早いうちに乗り慣れておかんと、ペーパードライバーになったらもったいないだろう」 「…でも、いいの?先生の車は?」 「丁度買い換えようと思ってるとこだ。長年使ってきたボログルマだが、大事に使えよ!」 ヒカルは大喜びで森下に抱き着いた。
「やったー!先生ありがとーーーーっっっっ♪♪」 「タイトル祝いには粗末だけどな」 「ううん、そんなことない!!何か、今打ち終わったばかりで勝ったのは分かるけどタイトルなんてピンとこなくてさ。何か先生のお祝いの話で何かこう〜〜、タイトル取って良かった〜っ!て、そんな気がしてきた!」 感情表現がストレートな現代っ子を発揮して、ヒカルは素直に喜びを表現する。正直なその様子に、周囲も微笑ましくそれを眺めていた……が。
一部だけ、絶対零度の冷気をかもし出している人物がひとり。 満足のいく打ちまわしだったので、負けはしたものの、素直に負けを認めることはできた。森下の荒っぽい朴訥な祝い方も、彼らしいとのんびり眺めていた。 ……しかし。 「……ふうん。進藤、君は僕に勝った事よりも、車を(しかも中古品)貰う事の方が、タイトルを取ったという実感が湧いたというのか……」 ざわざわざわざわ。 アキラの周囲限定だった冷気が次第に拡大し、記者を、カメラマンを、記録係を、果ては森下までも凍り付かせてゆく。 凍らないのは分かっていないヒカルただ一人。
「…へ?だって、すっげー面白い碁だったからさ。打つのに夢中で、これがタイトル決定戦なんて、すっかり忘れてた」 ぴた。 冷気が拡大するのが止まる。 「だから勝った、ってのは分かったし嬉しいんだけど、普段も碁会所で打ってて勝ったり負けたりしてるじゃん。俺たち。だから勝ってもそのくらいで、さぁ、検討してもう一局、って感じだったんだ」 再び冷気はざわめき始める。その場にいた人々は、頼むからこれ以上口を開いてくれるな、と願った。 …心の中で。 そのような願いはヒカルに聞こえる筈もなく。
「だから、『タイトル祝いだぞ』って祝福されて、そこではじめて、タイトル取ったんだなー、って、すっげ嬉しくなったんだよ!お前はそうじゃなかったの?搭矢」
「ふざけるなっ!!!」
「搭矢アキラ王座、一喝とともに対局場を去る」…なんて一文が載ったのは、その週の「週間囲碁」である。 天元という大きなタイトルと、師匠から車を貰える、と嬉々として喜ぶ進藤新天元の写真が、それとは対照的に映されており。それを偶然目にした将棋界の新鋭、加賀七段は、愛用の扇子をバンバン叩いて爆笑したそうである。
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