2003年02月26日(水) |
『初心者マーク2』(オガヒカ小ネタ) |
日本棋院の前に一台の白い車が止まったのは、梅の花が盛りの3月の晴れた日だった。 型は古そうだが、塗装が妙にきれいなので、おそらく中古車の塗装を塗り直しでもしたのだろう、と緒方は横目でちらりとそれを眺めながら通り過ぎようとする。 すると、パァン、とクラクションが鳴った。 「緒方さーん!」
運転席の窓からひょい、と顔を出したのは、先日初のタイトルをライバルの搭矢アキラから奪取したヒカルだった。 狭い囲碁界、天元戦での「搭矢アキラ一喝事件」は、「週間囲碁」が発売される前に上段者たちの間に広まっていた。もっとも緒方は、直接ヒカル本人から聞いていたのだが。 濃紺のスラックスにカッターシャツ、薄いブルーグレーのジャケットと、緒方にしてはかなりの軽装なのは、今日が手合ではないせいだ。スケジュールの確認と原稿の打ち合わせで午前中を費し、これから軽く食事でもするつもりだった。 緒方は、ゆっくりとヒカルのもとへ近づく。 「これか?…例の森下名人から譲られた車は」 「うんそう!…ちょっと色がくたびれてたからさ、貰った後、板金屋さん紹介してもらって、塗り直してもらったんだけど」 「スターレットの白……あまりの定番すぎて何も言えんな」 「いいじゃん〜。貰い物だから贅沢は言えないよ。色はさすがに、白はどうかなって思ったけど、色を変えて全塗装するのって金かかんだもん。どっちみち、これは車の運転に慣れるために、乗りつぶすつもりでいるしさ。同じ色に塗り直すだけなら、そんなに高くなかったから、そうしたんだよ」 緒方は改めてヒカルのものになった車を眺める。スターレットXリミテッド、5ドア。普通車の割に小さいから、小回りがきく分、初心者向けかもしれない。 車の前と後ろには、しっかりと、これまたおろしたての「初心者マーク」が貼られてあった。
「…で、今日はどうした。手合いの日じゃないだろう」 「うん。練習がてらドライブ」 「じゃ、そのついでに、この前連れてった「かんの」へ連れて行け」 ヒカルの許可もなしに緒方は助手席に回り、「開けろ」とばかりに顎をしゃくった。ヒカルは慌ててロックを外す(森下のものだったから、オートロックではないのだ)。緒方は遠慮のえの字も見せずにどっかりと助手席に座り、シートを後ろにずらした。 「ええと俺、あの店に行く道あまり覚えてないんだけど…」 「ナビくらいしてやる」 「言っておくけど俺、緒方さんみたいに運転上手くないよ?」 「初心者に大きな期待はしねぇよ。免許取る前から運転してたんだったら話は別だが」 緒方の言葉に、ヒカルはとんでもない!とぶんぶんと首を振った。そんな暇、あった訳がない。今回免許を取るのだって、手合いの合間をぬいぬい、二ヶ月以上かかってしまっているのだから。
「行かないのか?……奢りだぞ」 「行く」 即答したヒカルは、早速周囲を見廻してエンジンをかけた。先日、緒方がヒカルを連れて行った店は、毎朝、店主が築地で仕入れてきた旬のネタを天ぷらにして熱々のまま食べさせてくれるので、ヒカルのお気に入りの店のひとつになっている。 ウィンカーをつけ、初心者の運転にしてはスムーズにクラッチをつなぎ、ヒカルは車の流れに何とか入った。
緒方は珍しく言葉少なに、車線変更のポイントや曲がり角の指示を早めに出すくらいで、沈黙を守っていた。案外、ヒカルが初心者の固さはあるものの、丁寧な運転をする事に気がついたのだ。スピードを出すのはまだ怖いと見えるが、これならば、横からうるさく言うよりも、黙っていた方がヒカルは運転に集中できそうに見える。もちろん、そう思いながらも一応周囲やサイドミラーは確認しているが。
赤信号で停車した時も、ありがちな前後にしゃくるような動きは見せず、スムーズに止まった。 「中古車にしては、エンジン音は悪くないな。サスの感触はさすがにどノーマルだが」 ふとした呟きに、ヒカルが吹き出す。 「何だよ」 「だって緒方さん、それじゃまるっきり峠か首都高の走り屋みたいな台詞なんだもん」 「走り屋になった覚えはないが、そんな風な奴等に高速であおられた事はあったぞ」 地方に対局に行ってきた帰りだったか。 「どうしたの?」 「気に食わないからブッちぎってやった」 ヒカルは、声を出してケラケラと笑った。あまりにも、負けず嫌いな緒方らしくて。 「いつまで笑ってる、歩道の信号が変わったから、もうすぐ青になるぞ」 「はーい」
ああおかしい、とヒカルは涙でにじんだ目を擦ってから、シフトレバーに手をやった。
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