2003年02月21日(金) |
『この空をとべたら』(ヒカ碁小ネタ。ヒカル16歳) |
5月。 佐為は、この青い空に消えてしまった。 高く澄んだ、しかし秋と違って、鮮やかな青い空。 明るい陽射し。風がゆるやかに頬をなでる。 砂浜には、黄色い花が可愛らしく咲いて。
こんなきれいな季節に、佐為は消えてしまった。
「おい、進藤」 「…何?緒方さん」 振り向くと、緒方さんが煙草に火をつけながら立っている。 少し、寒そうだ。5月とはいえ、海辺の風は少しつめたいから。車で待ってていいって言ったのに。 「テーマパークとか、そういうのに行きたかったんじゃないのか?」 てっきりそっちに行きたいと言い出されるかと思ってた……という緒方さんの言葉に、俺はくすりと微笑った。 「…いいんだよ。俺が海に行きたかったんだから」
3月、搭矢のトコの碁会所で、「名人戦のリーグ入りできたら、好きな所にドライブに連れて行ってやる」と話をもちかけてきたのは緒方さんだった。俺が、緒方さんの車を気に入って、ずっと話してたし、早く免許を取りたいって騒いでたから。…発憤材料のつもりだったそうなんだけど、結果、俺は三次予選を勝ち抜き、リーグ入りを果した。…それが、5月の連休も明けた、昨日。 (佐為…やったよ) 対局室で呆けてたら、緒方さんがいきなり目の前に現れたんだ。突発出現は搭矢門下のお家芸なのかな? そしていきなりの質問。「何処に行きたい」 ……とっさに俺が思い付いたのは、「海」だった。
どこまでも続く海は、寄せては、返して。鮮やかな空の青を映して、青く染まる。そういえば、佐為は、海を見たことがあったのかなぁ……。 この、美しい青い空を愛した、優しいひと。 きっと、目の前に広がる海も、大はしゃぎしながら、喜んで好きになったに違いない。
「…空に、焦がれる人でもいるのか?」 緒方さんは、俺に並んで座りながら、ぽつりと言った。今日は白スーツじゃないけど、高そうなスラックス汚れるよ。大丈夫かな。 「……え?」 「空を飛びたいような、そんな顔してるからさ」 俺はちょっと吹き出した。 「緒方さん、結構詩人だね。人が空を飛べる訳ないじゃん」 そう言って、仰向けに転がり、両手を伸ばした。 「……でも、そうだね。本当にこの空を飛べたら、いいな」
……佐為に、会えるかな。
緒方さんは、何も言わなかった。普段はうるさいくらいちょっかいをかけてくるのに、こんな時は黙ってる。変な人だ。 …ただでさえ、4月から5月の俺は情緒不安定だといって、皆うるさいくらいに気を使ってくる。そして理由を探すんだ。「何がそうさせてるんだ」って。まるで腫れ物にでも触るように接してくる奴もいる。社なんかはそんな感じ。 例外は搭矢と緒方さんくらいなんだけど、搭矢とは、囲碁の話をして、夢中になれるから……正直、囲碁のことだけ考えていられるから、まだ、普通でいられるんだ。 緒方さんは……ちょっかいをかけてくる時は別だけど、ふとした瞬間に、沈黙が落ちる。慣れない時はしんどかったんだけど、時々、この沈黙が嬉しくなる。俺が、佐為の事を考えていても、一緒にいるのに緒方さんの事を放っておいても、緒方さんは緒方さんで何かやってたり、煙草をくゆらせたりして、何も言わない。 こっちに関心を向けてこないから、俺もひっそりと、その隣で息をつける。 誰も知らない秘密を抱えながら。
5月。 こんな綺麗な青い空に、佐為は消えてしまった。 ……俺の、せいで。
ぱたりと、俺は空に差し上げていた両手を砂浜に落す。どれだけ伸ばしても、佐為には届かないから。 もし、この空を飛べたら、届いたんだろうか。 人は飛べないけれど。 大地に、足はすいついたまま、ただ空を見上げるだけ。 神の一手を求め、はるかな高みを望んで。
「……遠いなぁ………」
思わず呟いた言葉に、緒方さんの煙草の煙だけが、ゆらりと揺れて。 ゆっくり、空に昇って、消えていった。
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