Kin-SMA放言
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2003年08月29日(金) 傾(かぶ)いて候

今日のぼくは、「八月納涼歌舞伎第二部 怪談牡丹燈籠&団子売」(歌舞伎座・千穐楽)と「阿修羅城の瞳」(新橋演舞場)のダブルヘッダーだった。

きんきっず話はお休みにして、先日観た「野田版鼠小僧」と合わせて、“平成歌舞伎の萌芽と行く末”に関して長々と述べるつもりなので、興味のあるお方のみお付き合いを。

その代わりと言ってはナンだが、先々週の日曜日の『堂本兄弟』(ゲスト・THE ALFEE)の感想を当日の日記(コチラ→)にupしたので、今さらでもいいという方は、どうかそちらに跳んでください。



(以下、2003.9.9追記)
昔、

「芸術には2種類しかない。それは良い芸術と悪い芸術だ」

と言ったのは、誰だったか。

その顰みに倣うなら、

「演劇には2種類しかない。それは面白い演劇と面白くない演劇だ」

とここで言い放ってしまえれば、カッコイイのだけれど。

「面白いんだけど、『歌舞伎とは言えない』んだよねー」

なんて、言いたくないのだ(何を指してるか、ばれてしまったではないか)

言わなきゃいいじゃないか。『歌舞伎じゃなかった』ら、いけないのかよ、って言うことだもんね。

でも、作り手が、なんか知らないけど、

「これこそが現代の歌舞伎だ。歌舞伎がエネルギッシュに若者文化を形成していた頃の、あのパッションだ」

みたいに得意げに壮語してるから(してませんか? してますよね?←挑戦的)、つい言いたくなるってもんなのよ。

『野田版鼠小僧』(八月納涼歌舞伎第三部・歌舞伎座)

面白くなかったかと言われれば、まぁ面白かったわけで。

でも、正直、あのラストシーンにはものすごく納得いかないわけで。

あのね。野田演劇としてなら、別にいいのよ。ああいう終わり方。野田さんなら、ああいう余韻にするだろうと。

でも、それなら野田さん(も、なかむら屋も)は、「歌舞伎って何なのか」をわかってないと思う。

(彼らより自分の方がわかってると思うのも、たいがい生意気ですか?)

歌舞伎って、庶民の文化でしょ?

時の歪んだ体制を批判する、だけどそれを表立ってはしない、成熟した大人の文化でしょ?

大岡越前を、本名のまま、こずるい体制側の人間にしちゃったのもミスならば、そのこずるさを「覆さない」ままで終わらせちゃって、鼠小僧がそれを暴いたことによって、報われず死んでしまうなんていうエンディング、歌舞伎の精神じゃないです。

「いがみの権太」を、よく理解しないまま、なぞってしまったんじゃないかと思ったくらい。

“正義は勝つ”で終わるのは、子供っぽいとでも思ったんだろうか?

あれを“達観”と受けとめろと言うんだろうか?

ぼくは納得できない。

似たような後味の悪い終わり方をする歌舞伎を、前に観たことがある。

『宿無し団七』

これは『夏祭浪花鑑』の原作になった話だそうだ。

どっちでも団七は結局死んじゃうんだけど、『宿無し〜』の方は、なんか、周りの人たちの好意からくる嘘を真に受けた団七が、その誤解を誤解したまま死んでしまう、というある意味リアルな芝居だった。

現実にはよくあること。

だからこそ、芝居の中ではやんないで欲しい。

庶民が救われない芝居なんて、誰が観たいものか(いや、救われない芝居はたくさんあるよ。でも、その終わり方には何かしら「納得できる要素」があるもの。少なくとも、後味の悪い終わり方をする芝居は、残ってない。『三人吉三』だって、三人とも死んでしまうけれど、その死に方が華々しくて、退廃の美学があるから、観客は納得するんだもの)

現実は「報われないことばかり」なことを、みんなよく知ってるんだ。

だからこそ、芝居の中では“何でも都合良く”運ぶんだ。

都合良く運ぶ“勧善懲悪”(これにて一件落着。カッカッカ・・・←ん?)を、「ガキと年寄りだけが喜ぶ」とバカにするか、いろいろ体験した後の「成熟した文化」と見るか、意見は分かれると思うが、ぼくは後者を採りたい。

ただ歌舞伎って、最初にその演目が出来た当初は色々ヘンでも、何度も再演されることで練り上げられていくという、ありがたい上演形態がある(『宿無し〜』が『夏祭〜』に変化してったように)

だから今回の『野田版〜』も、できれば何度も何度も再演して(なかむら屋以外のキャストでベリーOK。ただし、他の役者にやる気があれば、だが)、その時代時代のベストな内容に変えて行けばいいと思う。

そういうとき、「オレのホンは一字一句変えるな」なんていうアホな作者は失格よ、野田さん(うわ、毒!)

へーきで変わっていくのが「歌舞伎」の最大の美点なんですから。



ただまぁ、成熟した演劇文化を創るには、観客も成熟してなきゃいけないってことは、よくわかるんだよね。

てことで、『怪談牡丹燈籠』の話になりますが。

これを観るのは、ぼく、3回目かな?

円朝、大好きなんだよね〜(もちろん、本物を聴いた事なんてあるわけはない。ストーリーが好きなの)

これもベタですけど、言わんとしているのは、

「お化けより、人間の欲の方が、よっぽど怖い」

ってこと。納得できるんだよね〜。ほんと、良くできてる。

なのに、終わった後、ぼくの後ろの席で観てたお嬢さんが、

「一番悪いのは、『お札を剥がせ』って言った、幽霊じゃないの?」(つまり、お露の幽霊が一番罰せられるべきだ)

という感想をおもらしになっているのを聞いて、思いっきりずっこけてしまった(−−;)

・・・あのね、こういう話で、人間と幽霊を同レベルにしちゃうんですの?

幽霊に「人の道」を説くんですの?

なんか、現代人の“霊観”(「霊に対する感覚」っていうのか)をみた気分。

「霊」を未知のモノ、恐ろしい抗いがたいモノ、という風に見てないのね。

「死人の執念」としか見てない。

ある意味科学的ではある。が、その分、ロマンもへったくれもないではないか。

・・・時代が変わったら、芝居も説得力がなくなるってことか。

野田さん(あんどなかむら屋)、あなたは正しかったのかも知れない。

ぼくって古い人間?



話は現実になりますが、例によってぼく、勘太郎をベタぼめ。

ごつい顔してるクセに(コ、コラ)なんてかわい美しいお露。

七之助の新三郎は、容姿は“しゅっ”としたいい男だが、しゃべるとなんか子供っぽい。未だセリフが弱いな、隆行(本名)君は。

この兄弟、最近よく恋人同士を演る(しかもお兄ちゃんが「女」)が、残念ながら、いまいちバランスが良くない。でも、逆でもあんまり良くない。やっぱお兄ちゃんの方が、女方に向いてるからかね?

『団子売』なんかも、逆のパターンは考えにくいもんなぁ。

これ、松嶋屋父子もステキだったけど、ぼくは何年か前に、パパ(勘九郎)とハト助(←すいません。八十助丈(現・三津五郎)のことです)で観たとき、めっちゃ可愛くてサイコーだった記憶がある。

『牡丹燈籠』に話を戻すと、大人の皆さん(一括りかよ)は、全員適材適所で、言うことなしだった。



で、このように、再演を繰り返すことで、どんどん練り上げられ成熟していくのが歌舞伎という演劇の醍醐味である、といったところから、『阿修羅城の瞳』再演バージョンへと話は移るのだが、ちょっと手が痛くなってきたので(とほほ)、まず今日(こんにち)は、これぎり〜。<(_ _)> チョン、チョン、チョン、チョン・・・(←柝の音)


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