エンターテイメント日誌

2005年01月28日(金) オペラ座の怪人と私

映画「オペラ座の怪人」の評価はB+である。

筆者は舞台の「オペラ座の怪人」をミュージカルの最高傑作だと今でも信じ、熱烈に愛している。崇拝していると言っても良い。初演されたロンドンのハーマジェスティ劇場とブロードウェイの劇場とで観劇し、二大陸を制覇したのは後にも先にもこの作品以外ない。劇団四季による日本上演も大阪・名古屋・東京と三都市で観ている。ついでに言うならこのロイド=ウェバー版のみならず、宝塚歌劇で上演されたアーサー・コピット(脚本)、モーリー・イェストン(作詞・作曲)版の「ファントム」も大いに気に入って、宝塚と東京で観ている。

ジョエル・シュマッカー監督は上手く映画化していると想う。完成度については及第点をあげたい。ただし、映画が舞台を超えることは遂に叶わなかった。それだけ舞台版のハロルド・プリンスの演出が桁外れに優れていたということだろう。最高の舞台作品が最高の映画になるとは限らない。この真実は三谷幸喜作ふたり芝居の傑作「笑の大学」でも痛切に感じたことである。

しかしながら特に"マスカレード"における華やかな演出は息を呑んだ。衣装や装置の豪華さはヴィスコンティの「山猫」におけるあの舞踏会の場面を彷彿とさせた。"ポイント・オブ・ノーリターン"のナンバーも良かった。クリスティーヌを攫って怪人が舞台から姿を消す方法が実に格好良かったし、それに続くシャンデリアの墜落も派手で映画的であった。

シュマッカーの演出は実にけれん味たっぷりで、ファントムとクリスティーヌには常にセクシーであることを求めていたことが画面からひしひしと伝わってくる。ふたりが機械仕掛けの鏡を抜けて地下の湖に往く場面なんか、クリスティーヌの露出度の高い下着姿が実に大胆で度肝を抜かれた。僕はシューマッカーのアプローチを支持するが、見方を変えれば<はったり>ばかりの演出で品がないと受け取られても仕方ないと言えるだろう。米国での評論家の評価が極端に低いのもこういったことが原因なのかも知れない。

ガストン・ルルーの原作にはあるのに舞台版では省略されたエピソード、例えばファントムがクリスティーヌを馬に乗せる場面とか、鏡の場の拷問などが映画で復活されたのは好感を抱いた。追加されたファントムが子供の頃のエピソードも違和感がなくて良かった。

ファントム役のジェラルド・バトラーは余り唄が上手くないが、ロックンロール調でシャウトする激情型の役作りでなかなかそれはそれで似合っていたと想う。

エミー・ロッサムは今まで観てきたクリスティーヌの中で最高。とにかく歌唱力が抜群。そして唄に深い感情を込められるというのが素晴らしい。特に"ポイント・オブ・ノーリターン"には痺れた。

残念だったのはミニー・ドライバーのカルロッタ。これははっきり言ってミスキャスト。大体彼女、全くイタリア人というイメージではない。ファントム・クリスティーヌ・ラウルは三人とも自ら唄っているが、ミニーの高音部は吹き替え。役に似合っていない上に唄えない彼女をどうしてキャスティングしたのか、全く理解に苦しむ。ちなみに映画のために追加されエンディングに流れる唄"Learn To Be Lonely"はミニー・ドライバーが唄っている。これがまた、どうしようもない駄曲なんだわ。

ロイド=ウェバーははっきり言って1993年に初演された傑作「サンセット大通り」以降は鳴かず飛ばずで、才能が枯れ果てている。かつての天才作曲家ロイド=ウェバーは既にこの世にはなく、今のウェバーは実は影武者ではないかと一部で噂される始末。


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雅哉 [MAIL] [HOMEPAGE]