原題は「我的父親母親」。中国映画である。
大林宣彦監督は映画を撮るとき、ヒロインの少女に監督自らが恋することが出来るかどうかが、映画の成功にとって非常に重要な鍵を握っていると語っておられる。そしてそういう時には必ず少女が監督の夢の中に登場するそうだ。この映画を撮影中に、チャン・イーモウ監督の夢の中にもヒロインのチャン・ツィイーが夜毎に出てきたに違いない。
物語は極めて単純なメロドラマである。父親が死に、山村の郷里に帰郷した息子が昔の母と父の出会いとその恋愛の過程を辿るという、ただそれだけである。しかしまさかこの映画であれだけ魂が揺さぶられ、涙を搾り取られるとは想ってもみなかった。余りに感動したので翌日また観に行ったのだが、前日以上にまたボロボロに泣いてしまった。隣に座っていた男の人も3回ティッシュを出して涙を拭っていたのを僕は見逃しはしなかった(笑)。劇場が涙で包まれたのは決して悲しいからではない。余りにもツィイーが可憐で、その笑顔が切ないまでに愛おしいからだ。そしてお下げ髪を揺らしながらちょこちょこ走る姿の可愛らしさときたら、もう堪らない。この映画ではスローモーションが多用され、そしてなんとツィイーのクローズ・アップ・ショットが多いことだろう!まるで彼女の為のプロモーション・ビデオである。しかしそれも無理もない、いや、必然であった と納得せざるを得ない。彼女がこの世に生を受けたというのは20世紀の奇跡と讃えても言い過ぎではないだろう。その存在そのものがミロのビーナスに匹敵する芸術作品であると評したら、ツィイーに対して失礼だろうか?(これは決して「ビーナスに対して失礼だろうか」の書き間違いではない)
映画は「タイタニック」のポスターが貼られた現代から始まり40年前の過去に遡る。現在の場面がモノクロームで過去がカラーという手法は「ジョニーは戦場へ行った」でも見られた。しかし、「ジョニー…」の場合、想い出こそが現実よりも輝いているというコンセプトでそうなったのとは異なり、本作の場合、全てチャン・ツィイーの魅力をより引き立たせるためだけに奉仕されているに過ぎない(笑)。映画は後半、またモノクロームの現代に戻るのだが、それからの場面が長いのだ。しかし、それを観ながら僕は「だが必ず、映画のラスト・カットは再びカラーになってチャン・ツィイーを捉えたショットで終わる筈だ。いやそうならねばならない。」と心の中で確信した。その僕の予感が的中したのかどうかは、これを読まれている貴方ご自身が劇場でご確認下さい。
また、撮影の美しさも特記せねばなるまい。黄金色に輝く麦畑、紅葉の白樺の林、丘陵に続く一本道。その自然描写が素晴らしい。そしてそれはヒロインの心象風景ともなり、彼女の心に不安が横切ると、突然冷たい風が吹き、林が騒ぎ、燦々と照っていた筈の太陽光が翳るという具合である。イーモウ監督のデビュ−作「紅いコーリャン」でも赤が鮮烈な印象を残したが、ヒロインの服の赤、そして彼女が織る布の赤がこの映画を観た全ての観客の心に永遠に深く刻み込まれることであろう。それにしても機織り機の無数の赤い糸を透かして捉えたツィイーのショットの、息を飲むばかりに何と美しいことであろうか!
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