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2003年03月12日(水) ■ |
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◆『三月大歌舞伎』(夜の部) 仁左衛門、勘九郎、玉三郎、富十郎、芝翫、左團次、弥十郎、他… |
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歌舞伎はいつ観ても、その生の舞台の迫力に圧倒されたり、アドリブに大笑いしたりと、その素晴らしさ、面白さを毎回感じていましたが、今回ほど華のある役者が勢ぞろいの舞台は、毎度の事では無いので、楽しみに出かけました。 今回は歌舞伎が好きな母と出かける筈でしたが、ケガで入院してしまいましたので、急遽、観るのが初めてという従妹を誘いました。 初めてでも解りやすくと思い、イヤホンガイドも借りて舞台を拝見。彼女も大変楽しんだ様子で感動したそうです。
【傾 城 反 魂 香】
絵の師匠である、土佐将監光信〈左團次〉のもとに、お見舞いに行く主人公の又平〈富十郎〉と妻のおとく〈芝翫〉。 忠義心もあり土佐派の絵師である(土佐の名前を与えられていないが)主人公の又平は、真面目で実直ではあるが、不器用で“どもり”というハンディの為、おとうと弟子の修理之助〈勘太郎〉にも出世の先を越され、何とか手柄を立てて、“土佐”の名前を与えてもらいたいと、遠方から師匠のもとに通っています。 しかし、どう願っても、訴えても師匠に訴えは通じません。 そこへ主家の姫君を救出するという、手柄をたてるチャンスがめぐってきます。 ですが、師匠は、おとうと弟子の修理之助に助けに行くように命じます。 唯一のチャンスも逃し、生きる希望も無くなり“どもり”を嘆きながら夫婦で死のうと覚悟して最後に、この世に生きた証として、庭の手水鉢に一世一代の自分の絵を残そうとしますが…。
この演目を観るのは二度目になります。以前も又平役を富十郎さんが演じたのを拝見していました。 不器用な夫と、主人を思う少々お喋りで気のいい女房。 この取り合わせに可笑しみもある分、思うように自分の気持ちを話すことが出来ない“どもり”というハンディのもどかしさ。 師匠に伝えたくても伝えきれない心の内が、セリフや演技から悲痛な叫びのように聞こえてくるかのよう。
また、今回の女房おとくを演じた芝翫さんは、夫が話せない分、変わって一生懸命話す前半は楽しい劇になっているのですが、後半のどうする事も出来ず、死を覚悟する場面の悲痛な嘆き、身体自体に不足があるわけではないのに、ただ“どもり”というだけで、なぜこんなに惨い想いをしなければならないのか…。 涙を誘う迫真の演技には、強い夫婦愛を見せつけられ、胸に迫ります。 以前観た時より、かなりホロリときて、地味目な演目ですが、心に強く残りました。
そう、話の終盤は、一心不乱に手水鉢に書いた絵が、不思議な事に、石の反対側に抜け出て、その奇跡のような現象を観た師匠に、“土佐”の姓(武士の資格も得られる)と、衣服、刀、印可の筆を贈られ、喜び勇み姫君救出に赴くのでした。
〔*注 不快に思われるかもしれませんが、セリフで吃音の事を“どもり”と表現していましたので、あえてこの言葉を使用しました〕
【連 獅 子】
実に華やかな親子共演。狂言師のちに親獅子役は中村勘九郎、子獅子役に勘太郎、同じく七之助という、観客が見たくなるような配役ですね。 こういった舞踊作品を見るとき、振りの一つ一つに込められた意味の深さを知るのに、イヤホンガイドは有り難かったです。 初めは3人とも狂言師で登場します。そして、勘九郎の親狂言師が、文殊菩薩の霊地である清涼山の様子を、中国の壮大な風景を映し出すように重厚に舞い、遥かな景色が目に浮びました。
つづき、親獅子が子を谷に突き落とし、這い上がってくる子のみを育てるという故事を3人が舞います。 大変迫力ある踊りで、男性ならではの力強さを感じました。 この場面は、獅子親子の試練に耐える姿ばかりでなく、“芸の道”やその他の過酷な訓練、厳しさに耐えることにも読み取れるところのようです。 勘九郎の突き落とした子を心配する演技や、一直線に親のもとに這い上がろうとする子獅子の一途さも良く表現していたと思います。 それに、勘九郎がいつも見せる軽みとは全く違い、役に対して深く洞察したことがうかがえる出来でした。(ここまではまだ狂言師の扮装)
獅子の姿に変わる為に3人が一旦退場したあと、狂言場面(本当に狂言の手法)になり、法華宗の僧(信二郎)と、浄土宗の僧(扇雀)が登場し、清涼山の石橋への道中を面白可笑しく演じて、場を和やかにしていました。
そして、獅子の精になって激しく舞い踊るお楽しみの場面。 花道から登場するときも一度出て引っ込み、再び登場する、歌舞伎ならではの期待を更に高める伝統の演出。白と赤の牡丹の中で、長い獅子の毛を振る3人の姿は勇壮で圧巻。
舞踊はしっとりした舞いもあれば、このように大迫力で激しい踊りも見ることができる、歌舞伎公演はなんて楽しく奥深いのでしょう。 観客も大喜びで拍手喝采でしたが、歌舞伎の場合どんなに盛り上がってもカーテンコールが無いのは残念だなぁ。
【与 話 情 浮 名 横 櫛】
とりわけ華やかな役者が揃い、随所に見所だらけのこの演目は期待とともに拝見しました。 いやぁー 面白かった。生の舞台の醍醐味を味わいましたよ。
《序幕、木更津海岸見染の場》いわゆる、土地の親分、赤間源左衛門の妾、お富〈玉三郎〉と、大店「伊豆屋」の若旦那、与三郎〈仁左衛門〉が、木更津の海岸でお互いを一目で見初める出会いの場面。 大勢の子分に付き添われ、現われた玉三郎のお富は、なんとも大人の色香を漂わせながら、威厳を持ち、凛とした存在感。
対する仁左衛門の与三郎は、若旦那というお坊っちゃん気質を、登場の場面から柔らかく大らかに表現し、此方も大変男前で色っぽかったです。 特に嬉しかったのは、舞台装置が変わる場面で、花道の反対側の客席に降りてきて、1F 通路をぐるりと一周、アドリブに近い話をしながら廻ってくれました。近くでお姿を見られて観客も大喜び。生舞台ならではの興奮ですね。 そして見所は、二人がぶつかって出会った時に見惚れあって、お富は周りに勘ぐられないように「いい景色だねぇ」とごまかし、与三郎は、ぼぅーとなって、着ている羽織を落としてしまう。何とも見事な演出です。
《赤間源左衛門別荘の場》 親分である主人の源左衛門〈弥十郎〉の留守にお富は、与三郎と逢瀬を重ねます。 この場面のお富と与三郎は何とも初々しく、ですが最後はお富のほうがリードして、障子の影に隠れてしまいます。障子のシルエットで愛の場面を客席に映し出す演出で、大変なまめかしかったです。与三郎の初心なしぐさが印象的。
しかし、子分に告げ口され、主人の源左衛門に発見されてしまいます。お富は逃げ込みましたが、与三郎はその場で捕まり、身体のいたる部分に刀で斬りさいなまれて簀巻きにされ海に投げ込まれてしまう。 お富は、海岸まで逃げたが、子分に追いつかれ、与三郎は源左衛門の手にかかったと聞いて茫然自失となり、海に飛び込んでしまいます。
この、“赤間別荘の場”はここしばらく上演していないそうで、今回は珍しいみたいです。 なぜそうだったのか疑問。前後の話の流れもよりわかり易くなるし、色っぽい逢引場面にポッーとなり、最後にお富が逃げるところは、ハラハラする面白い場面でしたので…。 それにしても主役二人は美しい。
《源氏店の場》 木更津での出来事から三年後。黒塀に見越しの松が植えられた、江戸の大店の大番頭、多左衛門〈左團次〉宅。お富は海に彷徨っていたのを助けられ、多左衛門の世話になっていました。(後に兄という事がわかります) お富は銭湯の帰りで洗い髪姿で色香が匂う風情です。軒下で雨宿りをしていた手代の籐八〈松之助〉を邸内に引き入れ休ませる。 このお富と籐八のやり取りがものすごく面白く、客席の笑いを誘ってました。 お富に気のある籐八を、全く相手にしてないお富が、からかい気味にお化粧したりと…。コントのような感じかな…。
そこへ傷だらけの与三郎が顔を隠しながら、ならず者でゆすり屋の蝙蝠安〈勘九郎〉と連れ立って登場。 ここからの三人での掛け合い芝居の面白かった事!! 勘九郎が入っただけで、芝居の空気がガラリと変わります。蝙蝠安はゆすりたかりをするが、どこか憎めない小物ぶりで、勘九郎にハマる、ハマる!!
与三郎は初め、お富がいるなどと知らずに蝙蝠安について来たが、途中、お富と解り、自分が死ぬ思いをし、このような姿に変わり果てたのに、お富は優雅に安穏と妾として暮らしているという事が我慢できずに、お富を攻め立てます。お富の言い訳も聞きはしません。 お富の玉三郎は、先ほどの籐八に対して軽くいなしていたのと違い、必死になって身の潔白と、けして妾などになっておらず、無償で世話になっているだけと訴える演技の対比が凄かったです。 多左衛門が帰ってきて、全員をなだめ、お富に渡したお守りで、彼が実はお富の兄だったので世話をしていたと解ったところでめでたしになるのですが…。
今回の玉三郎は匂う様な女っぽさ、仁左衛門の若旦那ぶりと三幕目での斬られ与三郎になったときの演技の対比と色気、勘九郎の調子いい小物悪党ぶりを楽しめて幸せでした。
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