この2ヶ月間何もしていなかったのかといえばそうではなく、読書と求人チェックだけは欠かさずやっていた。 その頃はもう中也の詩は一段落しており、代わって中国思想シリーズへと突入していた。 「自分を鍛えなおさなければ」といった意味ではなく、なにか心の拠り所になるものを求めていたのだ。 一種ノイローゼ気味な生活の中に、どこか心を遊ばせようとしていたもう一人の自分がいたことは嬉しい。 もしこのバランス感覚がなかったとしたら、今頃こうやってHPの更新をしている自分なんかいなかったと思う。 おそらくもう死んでいるか、廃人同様に生きているかしていただろう。
その頃は格式ばった孔孟には興味はなく、自由奔放な老荘ばかり読んでいた。 漢文で習った老荘というのは何か古めかしく堅苦しい感じがしたものだが、現代語で読む老荘は新鮮で面白く且つためになる。 この老荘学習は、ぼくのその後の人生において大きな影響を与えた。 老荘の言葉を勉強したということにはさして意味はないが、自分の人生や経験に照らし合わせながらする勉強がある、ということを発見できたことは大きい。 これに比べると、受験のためにする勉強というのはなんとくだらないことなんだろう。 これからのち、ぼくはそういった意味での勉強ばかりやって、今に至っている。
|