頑張る40代!plus

2005年07月20日(水) 自戒

確かに何かやりたかったのだけど、
確かに嫌になっていたのだけど、
本音のところは
何も考えられなくなったからだ。
突然そうなったのではなく、
突然そう思ったのではなく、
十年と数ヶ月がその方向に歩かせたのだ。
人生がヤル気という人為を嫌ったのだ。
いろいろな事件があった。
いろいろな思考もあった。
だけどそれがいつだったかは忘れたし、
体系付けて思い出すことも出来ない。
今日はそんな日だ。
いつも一線上にない思考、
星のようにまばらな想い出、
まるで幼児期を思い出すように
あいまいな過去を振り返ってみる。

自作詩『退職記念日』である。
ぼくは平成3年に前の会社を退職したのだが、この詩はその翌年に書いたものだ。
長年勤めた会社を退職するというのが、人生初めての経験だった。
そのことに向き合った詩であるがゆえに、思い入れは強い。

まあ、今日は詩の話をするわけではない。
詩の話ではなにのに、どうしてこの詩を取り上げたのかというと、そこに書いてある言葉が気になったからである。
その言葉というのは、
いろいろな事件があった。
いろいろな思考もあった。
だけどそれがいつだったかは忘れたし、
体系付けて思い出すことも出来ない。
という部分である。

何でその部分が気になたのかというと、昨日の日記を書いていて、ふと「例えば学生時代は、その学年その学年での想い出をしっかりと覚えているものだが、社会に出るとその『学年』というメリハリがないから、よほど大きな出来事でもない限り、それがいつだったか覚えていないことが多い」と思ったからである。
トンボ事件なんて、おそらく3年後には「そういえばそんなこともあった」くらいの記憶になっているだろうし、5年後には「あれはいつだったか?」に変わっているだろう。
10年も経てば、そういうことがあったことすら忘れているに違いない。
つまり、人間というのは実に忘れっぽい動物であり、またその記憶というのは実に曖昧だということである。
ということは、記録を取っておかないかぎり、死ぬ前には膨大な人生の中の、ほんの一握りの記憶しか残ってないことになる。

そういうふうに考えると、日記というのは大切なものだと言わざるを得ない。
「今日は大したことがなかったから書かない」「きついから今日は書くのをやめよう」では、死ぬ前に楽しめないのだから。
と、自分を戒めたところで、さっさと日記を書くことにしよう。


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