確かに何かやりたかったのだけど、 確かに嫌になっていたのだけど、 本音のところは 何も考えられなくなったからだ。 突然そうなったのではなく、 突然そう思ったのではなく、 十年と数ヶ月がその方向に歩かせたのだ。 人生がヤル気という人為を嫌ったのだ。 いろいろな事件があった。 いろいろな思考もあった。 だけどそれがいつだったかは忘れたし、 体系付けて思い出すことも出来ない。 今日はそんな日だ。 いつも一線上にない思考、 星のようにまばらな想い出、 まるで幼児期を思い出すように あいまいな過去を振り返ってみる。 自作詩『退職記念日』である。 ぼくは平成3年に前の会社を退職したのだが、この詩はその翌年に書いたものだ。 長年勤めた会社を退職するというのが、人生初めての経験だった。 そのことに向き合った詩であるがゆえに、思い入れは強い。
まあ、今日は詩の話をするわけではない。 詩の話ではなにのに、どうしてこの詩を取り上げたのかというと、そこに書いてある言葉が気になったからである。 その言葉というのは、
いろいろな事件があった。 いろいろな思考もあった。 だけどそれがいつだったかは忘れたし、 体系付けて思い出すことも出来ない。 という部分である。
何でその部分が気になたのかというと、昨日の日記を書いていて、ふと「例えば学生時代は、その学年その学年での想い出をしっかりと覚えているものだが、社会に出るとその『学年』というメリハリがないから、よほど大きな出来事でもない限り、それがいつだったか覚えていないことが多い」と思ったからである。 トンボ事件なんて、おそらく3年後には「そういえばそんなこともあった」くらいの記憶になっているだろうし、5年後には「あれはいつだったか?」に変わっているだろう。 10年も経てば、そういうことがあったことすら忘れているに違いない。 つまり、人間というのは実に忘れっぽい動物であり、またその記憶というのは実に曖昧だということである。 ということは、記録を取っておかないかぎり、死ぬ前には膨大な人生の中の、ほんの一握りの記憶しか残ってないことになる。
そういうふうに考えると、日記というのは大切なものだと言わざるを得ない。 「今日は大したことがなかったから書かない」「きついから今日は書くのをやめよう」では、死ぬ前に楽しめないのだから。 と、自分を戒めたところで、さっさと日記を書くことにしよう。
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