ぼくは息を殺して、そっと両手でトンボの羽をつまんだ。 つまんだ後にトンボは初めてぼくの存在に気づいたのか、ジタバタ抵抗した。 さすがオニヤンマである。 疲れているとはいえ、力だけは強い。 しかし、ここで手を離すわけにはいかない。 逃げでもしたら、せっかくここまで上ってきたことが無駄になってしまう。
ぼくはトンボの羽を傷つけないように、静かに両方の羽を重ね、左手に持ち替えた。 あとは降りるだけである。 ぼくはトンボが暴れないように気を遣いながら、静かに棚板の上を歩いた。 相変わらず棚板は「バリバリ」と音を立てている。 しかも棚は不安定だ。 ぼくは慎重に脚立に足をかけ、全体重を脚立の上に移していった。 そして全体重を移し終えた時だった。 脚立が「ガチッ」という変な音を立てた。 その瞬間、脚立の両脚が開いていって、そのままぼくは下に落ちてしまったのだ。
けっこう高い位置からの落下だったが、大事には至らなかった。 ぼくがかつて住んでいた家は2階建てだった。 そこにはわりと急な階段がついていた。 そのため、ぼくはよく足を踏み外して落ちていたものだ。 ある時なんかは、飛べるような気がして、自分から飛び降りたこともある。 もちろんすり傷や打ち傷は負う。 ところが、なぜか骨を折るなどといった大怪我はしたことがないのだ。 おそらく何度か落ちているうちに、自然にうまく落ちるコツというものを身につけたのだろう。 とはいえ、脚立に足が絡んでしまい、向こうずねをしたたか打ってしまった。
いったい何で落ちたんだろう。 そう思って脚立を調べてみると、留め金のところが変形してしまっていた。 そのため、引っかけている金具が完全にはまっていなかったのだ。 しかもぼくが落ちた衝撃で、脚立の引っかけ金具の先が潰れてしまい、脚立は使い物にならなくなってしまった。
ところで、トンボはどうなったのか。 落ちる時に思わず手を離して逃げられたのだろうか? 落ちた時に潰れたのだろうか? ご安心あれ。 脚立から落ちている最中も、トンボのことは気にかけていた。 そのため手を離すことはなかったし、なるべくぼくの体から離れたところにトンボを持つ手を置いていた。 そのため、無事だった。
さて、脚立を調べた後で、ぼくはトンボを外に持って行き、店の前に生えている樹木の葉っぱの上にそっと置いた。 トンボは疲れていたのか、しばらくそこで休んでいたが、急に思い立ったように空に向かって飛んでいった。 ぼくはそれを見ながら、「怪我までして助けてやったんだから、あとで大判小判を持ってこいよ」と心の中でつぶやいていた。
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