かつてぼくは、詩作や作詞作曲といった創作活動をやっていたことがあるのだが、その頃何度か『神が宿る』経験をしたことがある。 そういう時は決まって眉間のところがむずむずしだし、そのうち意識が体の外にいるような感覚になってくる。 そして、そういう状態になった時に、詩を書く手が勝手に走ったり、曲が浮かんだりしたものである。 まあ、詩作や作詞作曲を真剣にやっていたのは、もう30年近くも前のことだから、その前後がどういう心境にあったのかなどということは、あまり覚えていない。
ここ最近となると、10数年前に友人の結婚披露宴で歌を歌った時くらいか。 その日ぼくは、『ショートホープブルース』を歌うつもりで、朝から家で練習していた。 練習しだしてから30分ほどたった頃だったか、急に体が温かくなり何かフワフワとした気持ちになった。 「おかしいな」と思いながらも歌っていくうちに、あることに気がついた。 何と、意識が体の外に出て、その後ろでぼくが歌っているのだ。 歌とまったく関係ないことを考えても、ちゃんとギターを引く手は正確に動き、口は確実に動き、声ははっきり出ている。 練習を終え、披露宴会場に着いてからも、ずっとその状態は続いていた。 その状態のまま、ぼくは舞台に立った。 200人ほどの前で歌うものだから、若干の緊張はあった。 が、緊張しているのは意識だけで、体はそういうことにお構いなく動いている。 そして歌い終えた時、それまで味わったことのないような感動に包まれた。 鳴りやまぬ拍手が、その感動に拍車をかけたのだった。 先にも後にも、歌でこんな経験をしたことはない。 おそらくその時、神が宿っていたのだと思う。
集中力が高まった時に、これと似た状態になることはある。 しかし、神が宿った時との決定的な違いは、それが自分の意思でなったのではない、ということにある。 とはいえ、集中力が高まった時にも、神が宿ることはあるが、それは集中力の高まりの中にあるのではなく、集中力の一歩外側にあるのだ。
さて、神が宿る状態にならなくなって、すでに10数年の時が過ぎている。 もちろん今は詩作や作詞作曲はやっていない。 だが、今は日記という創作活動をやっている。 それなら、一度くらいは神が宿ってくれてもよさそうなものだ。 神が宿る日記とは、いったいどんな日記なのか、それをぼくは見てみたいのだ。
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