ふう…、何も出てこない。 もう1時間以上パソコンの前に座っているのだが、書くことが決まらないのだ。 とにかくメインブログも決まったし、そのテンプレートデザインもぼくが理想としているものが出来つつある。 そういうことなので、何か気が抜けた状態なのだ。 眠気もさしてきたことだし、さっさと寝てしまえばいいのだが、一日最低一日記を公約している以上、何も書かないわけにはいかない。
そういえば、メインブログのタイトルは『吹く風』にしているが、そのことは今年の4月7日の日記に書いている。 そこにはそのタイトルの元となった、東京時代の日記『吹く風』の紹介をしているのだが、今日は、その時代にしろげしんたがどんなことを考えていたかを、日記から抜粋して書いてみようと思う。
“何も面白いことはない。 もし、あなたに面白いことがあるのならば、それはあなたの人生においてでのことであって、私どもは、あなたのその人生に不快を感じるばかりである。 いつの間にかその不快は嫌みに変わって、悲しいことには、まだしゃべったこともないあなたに、憎しみを抱くことになる。 そうなると、私どもはあなたの本当の優しさを見落とす羽目になる。 そして、まだ話したこともないあなたと私どもの間には、いつの間にか深い溝が出来上がってしまう。 その溝を往来する人を、あなたはかわいそうだとは思いませんか? しかも、その往来する人は、どちらとも波風を立たせないようにと、うまく立ち振る舞おうとするのだが、私どもその振る舞いに疑いを抱くようになる。 当のあなたとは、もうとっくに溝が出来上がっているのだから、今度はその人との間に溝を作らねばならない。 いったいこの繰り返しは、あなたのその不愉快さからきているのです。 あなたは私ども一人一人に、いや、あなたと私との間に、三十数億もの溝を生じさせようとしているのです。 ね、だから、あなたにとって何も面白いことはないはずです。”
“もし愛について語るとすれば、自分が運命に試されていることが、何とももどかしい。 「愛の告白によって、愛は愛でなくなる」というのは昔の持論だが、ある面今の持論でもある。 ある本に、『女の成長を妨げるような愛し方をするな』という言葉があった。 それはそう、その通り。 だが、いつまで経っても、濡らし濡らされの男女の仲、人間の愛については進歩がない。”
“愛という貸借表には、資本がとても大切なのです。 その大小によって、愛の価値は変わってくるのです。 これは金のことではありません。 その人の、愛するものに対する心の豊かさが、愛という貸借表における資本です。”
以上は1978年9月24日から25日にかけて書いたものである。 しろげしんた当時20歳、まだまだ若いわい。
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