| 2004年12月09日(木) |
歯医者の思い出(下) |
さて、その夜。 帰りぎわに映像の主任が、「しんた、まだ痛むか?」と聞いてきた。 ぼくが「痛いに決まっとうやん」と答えると、主任は「じゃあ送ってやる」と言った。 その当時ぼくはJR通勤をしていたのだが、その日は歯の痛みから駅まで歩く気が起きなかった。 そういう時に主任がタイミングよく声をかけてきたので、ぼくは渡りに船とばかりに主任の車に乗り込んだ。
車は、当初ぼくの家のある方面に向かっていた。 そのまま帰ってくれるのだろうと思っていた。 ところが、あるところまで来て、急に主任は方向を変えた。 そして、主任は「おい、何か食わんか」と言い出した。 ぼくとしては、一刻も早く家に帰って寝たかったのだが、むげに断るのも悪いと思い、「いいよ」と答えた。 「何食うか?」 「出来たら柔らかいものがいいけど」 「柔らかいものか。じゃあ、うどんにするか?」 「うん」 ということで、幹線沿いにあるうどん屋に入った。
ぼくはそこでカレーうどんを頼んだ。 食べ終わったあと、昼間抜いた歯の傷口から何かが出ているのに気がついた。 舌で触ってみると、カレーうどんに入っていた肉片のような感じがする。 「抜いた方で噛んだのに、おかしいなあ」と思いながらも、ぼくはその肉片みたいなものを指でとろうとした。 だが、なかなかとれない。 うどん屋を出て、主任の車に乗り込んだあとも、まだとれないでいた。 『ああ、イライラする』と、爪を立てて、それをつかみにかかった。 何度かやっていくうちに要領を得、何とかそれをつかむことが出来た。 そこで、つかんだ肉片のようなものを力を入れて引き抜いた。 肉片のようなものは、傷跡に深く入り込んでいたようで、抜ける時に歯茎あたりに、ちょっとした痛みが走った。 何だろうと思って、手に取ったものを見てみると、それは肉片ではなかった。 カレー色に染まってはいるものの、それは紛れもなくガーゼだった。
「あ、これはいかん」と思った時だった。 傷口から生ぬるいものが溢れ出した。 血である。 ぼくは慌てて、傷口を舌で塞いだ。 ぼくの異変に気づいたのか、主任が「どうしたんか?」と聞いてきた。 しかし、ぼくは答えることが出来なかった。 主任は再度「おい、どうしたんか?」と聞いてきた。 ぼくは言葉にならない言葉で言った。 「血が出た」
家に着いてから、ぼくはすぐに洗面所に向かった。 すでに口の中いっぱいに血がたまっていた。 それを吐き出すと、洗面所は血で染まった。 血は、1時間ほどして止まった。 その間、何度も血を吐き捨てたものだった。 血が止まったのを確認して、ぼくは先ほど取り除いたガーゼをきれいに洗い、それを傷口に詰め込むことにした。 だが、何度やってもうまくいかない。 しかたなく、傷口はそのままにしておいた。
翌日、朝早く歯医者に行ったのだが、そこで先生からそのことを聞かれた。 「あれ?ガーゼがとれている。何かあったんかね?」 「自然にとれました」 「自然に?おかしいなあ。深く詰め込んでいたから、自然にとれるはずはないんだが」 「・・・」 「まあいい。ところで昨日は疼いたかね?」 「はい、ちょっと」 「薬は飲んだやろ?」 「いいえ」 「『いいえ』って、我慢したんかね?」 「本当に痛くなるまで飲むまいと思って…」 「本当に痛く?どんな痛みだった?」 「なんか、歯の奥が疼くような痛みでした」 「それが本当の痛みなんだ」 「ああ、そうだったんですか」
「しかし、よく我慢したねえ」 「痛みにはわりと強い方ですから」 「そうかね。それはよかった」 どうもぼくはいらんことを言ってしまったようだ。 それから一週間、傷口が癒えるまでぼくはその歯医者に通ったのだが、そのことを言って以来、先生の治療は、かなり荒くなったのだった。
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