そういう折り、以前の常務から電話があった。 会いたいと言うのだ。 その常務とは、親会社の大手スーパーから出向していた人で、その時は親会社に戻って次長職をやっていた。 何の用事だろうと、待ち合わせ場所に行ってみると、そこには上司の他にもう一人、実直そうな顔をした男性がいた。 元常務がその人を紹介した。 「こちらは、うちの会社で人事を担当している者だ」 「はあ…」 「いや、風の噂で、しんたが大変な目に遭っていると聞いてなあ。本当のところはどういう状況なのかを知りたくて、ちょっと呼んだんだ」 「そうですか」 そこまで聞いて、だいたいのことがわかった。
「どうかね。今のまま続けて行けそうかね」 「え、何をですか?」 ぼくはわざととぼけて見せた。 「おまえが今の体制でやって行けるか、と聞いとるんだが」 元常務はぼくから「続けて行けそうにない」とか「辞めたい」という言葉を聞きたかったのだ。 だが、ぼくには意地があったので、そういうことは言わなかった。 のらりくらりとやっているうちに、元常務はしびれを切らして、ついに本音を吐いた。 「実は、うちの家電部門に空きが出来てなあ。本社から『誰か適任はおらんか』と言ってきたんよ。そんな時おまえの話を聞いてな。それで今日人事を連れてきたわけだ。どうかなあ。考えてくれんか」
悪い話ではない。 いや、その会社は大手も大手、その当時飛ぶ鳥を落とす勢いのあった大企業である。 しかし、ぼくはその誘惑には乗らなかった。 第一、今辞めてしまうと負けである。 そこでぼくは、元常務に「もうしばらく今のままで様子を見ていきたいんですが」と言った。 元常務はちょっと考えているようで、人事担当に人に何か耳打ちしていた。 そして、ぼくに「そうか。それなら無理にとは言わんが。でも、もし何かあったら、すぐに連絡してきてくれんか。それなりのポストを用意しておくから」 それだけ言うと、元常務は帰って行った。
時にくじけそうになることもあったぼくにとって、元常務の誘いは素直に嬉しかった。 しかし、ぼくはこの先どんなことになろうとも、その大手スーパーに行くつもりはなかった。 それには理由がある。 その会社に入るということは、当然転勤も覚悟しなければならなかった。 ぼくは学生時代から今に至るまで、生涯北九州在住と決めている人間である。 そのため、もし転勤になったりすると、その会社を辞めてしまうだろう。 そうなると、声をかけてくれた元常務の顔をつぶすことになる。 それだけはしたくなかったのだ。
理由はもう一つある。 それは、人に甘えるのがいやだったことだ。 それまで何のコネもなくやってきた。 もちろん、今の会社だってそうだ。 今の会社も人に頼めば、それなりの役職に就けたかもしれないが、ぼくはそれが嫌だったから、一般募集で、普通に試験を受けて入った。 面接でも、前の役職などは表に出さず、平社員からの道を選んだのだ。
しかし、今になって、あの時元常務の誘いを断ったのは、我ながらいい判断だったと思っている。 なぜかというと、それが正解だったからだ。 今その大手スーパーは、大変なことになっている。
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