『大人げない』という言葉がある。 いったいこれは何を基準にしているのだろう。 先日のチェッカーズの事件。 「フミヤ一派は高杢と鶴久を、クロベエを送る会の発起人に入れてやらなかった」 「フミヤは高杢と目を合わそうとしなかった」 「フミヤ一派は、高杢たちに、入院しているクロベエを見舞わせなかった」等々。 この事件を受けて、一斉にコメンテーターたちはフミヤ一派に対し『大人げない』という声を上げた。 しかし、こういうことは大人の世界でも、よくあることである。 コメンテーターたちは、そういうことを踏まえてこの発言をしたのだろうか? もしそうなら、彼らの言う「大人」というのは、聖人君子である。 よっぽどいい世界に住んでいる人たちなんだろう。
さて、あの場面、仮にフミヤ一派が高杢と鶴久を発起人に入れたとしよう。 そこにいる来賓たちは、彼らの引きつった笑顔と、張りつめた空気と、白々しさと、その場の不自然さを感じとることになるだろう。 会の終了後、フミヤ一派と高杢たちは、目を合わせることも言葉を交わすこともなく、その場を去っていく。 彼らの胸に残るものといえば、友情ではなく、忘れようとしたはずの確執である。 「こんな思いをするくらいなら、もう二度とあんな奴らと会うもんか」 と、帰る道々思うに違いない。 そして、永遠に修復されることがないだろう。
それにしても、高杢たちへのインタビューは、どうしてあんなセットの中でやるのだろうか。 あれはどう見ても、追悼番組のような雰囲気のセットであった。 まあ、背景にクロベエの死というのがあることはあるが、インタビューの内容は追悼とはかけ離れた、まったく異質のものだった。 内容が内容だけに、明るいセットを望むのは無理だろうが、もう少しどうにかならなかったのだろうか。 そういうセットの中でやるもんだから、高杢が、沖雅也に死なれた時の日景忠男や、サッチー事件の時、必死に野村監督に「克ちゃん、戻ってこい」と呼びかけていた元マネージャーの杉浦さんとダブって、ぼくには見えた。
しかし、高杢は、いったい何を訴えていたのだろうか。 「もう一度、グループでやろう」と言っていたわけでも、「関係を修復したい」と言っていたわけでもない。 さらに、「発起人のメンバーに入れなかったから、賠償金よこせ」と言っていたわけでもない。 「あいつがこう言った」、「こういう仕打ちをされた」ばかりで、どう聞いてもグチにしか聞こえなかった。 いちおう鶴久はチェッカーズバッチなるものを出してきて、「これを見て、あのころを思い起こせ」と言ってはいた。 が、思い起こしたところでどうなるものではない。 やはりこれもグチである。 フミヤ一派に対して『大人げない』と言うのなら、グチばかりこぼしている高杢たちも『大人げない』のではないだろうか。
まあ、こういうどこの世界でもあるようなどうでもいいことことを、ことさら大問題のように取り上げ、コメンテーターに『大人げない』と言わせているマスコミ自体が、一番『大人げない』と思えるのだが。 ああ、そうだった。 そういう番組を必死に見ていたぼくが一番『大人げない』のか。
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