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2004年09月21日(火) 大人げない

『大人げない』という言葉がある。
いったいこれは何を基準にしているのだろう。
先日のチェッカーズの事件。
「フミヤ一派は高杢と鶴久を、クロベエを送る会の発起人に入れてやらなかった」
「フミヤは高杢と目を合わそうとしなかった」
「フミヤ一派は、高杢たちに、入院しているクロベエを見舞わせなかった」等々。
この事件を受けて、一斉にコメンテーターたちはフミヤ一派に対し『大人げない』という声を上げた。
しかし、こういうことは大人の世界でも、よくあることである。
コメンテーターたちは、そういうことを踏まえてこの発言をしたのだろうか?
もしそうなら、彼らの言う「大人」というのは、聖人君子である。
よっぽどいい世界に住んでいる人たちなんだろう。

さて、あの場面、仮にフミヤ一派が高杢と鶴久を発起人に入れたとしよう。
そこにいる来賓たちは、彼らの引きつった笑顔と、張りつめた空気と、白々しさと、その場の不自然さを感じとることになるだろう。
会の終了後、フミヤ一派と高杢たちは、目を合わせることも言葉を交わすこともなく、その場を去っていく。
彼らの胸に残るものといえば、友情ではなく、忘れようとしたはずの確執である。
「こんな思いをするくらいなら、もう二度とあんな奴らと会うもんか」
と、帰る道々思うに違いない。
そして、永遠に修復されることがないだろう。

それにしても、高杢たちへのインタビューは、どうしてあんなセットの中でやるのだろうか。
あれはどう見ても、追悼番組のような雰囲気のセットであった。
まあ、背景にクロベエの死というのがあることはあるが、インタビューの内容は追悼とはかけ離れた、まったく異質のものだった。
内容が内容だけに、明るいセットを望むのは無理だろうが、もう少しどうにかならなかったのだろうか。
そういうセットの中でやるもんだから、高杢が、沖雅也に死なれた時の日景忠男や、サッチー事件の時、必死に野村監督に「克ちゃん、戻ってこい」と呼びかけていた元マネージャーの杉浦さんとダブって、ぼくには見えた。

しかし、高杢は、いったい何を訴えていたのだろうか。
「もう一度、グループでやろう」と言っていたわけでも、「関係を修復したい」と言っていたわけでもない。
さらに、「発起人のメンバーに入れなかったから、賠償金よこせ」と言っていたわけでもない。
「あいつがこう言った」、「こういう仕打ちをされた」ばかりで、どう聞いてもグチにしか聞こえなかった。
いちおう鶴久はチェッカーズバッチなるものを出してきて、「これを見て、あのころを思い起こせ」と言ってはいた。
が、思い起こしたところでどうなるものではない。
やはりこれもグチである。
フミヤ一派に対して『大人げない』と言うのなら、グチばかりこぼしている高杢たちも『大人げない』のではないだろうか。

まあ、こういうどこの世界でもあるようなどうでもいいことことを、ことさら大問題のように取り上げ、コメンテーターに『大人げない』と言わせているマスコミ自体が、一番『大人げない』と思えるのだが。
ああ、そうだった。
そういう番組を必死に見ていたぼくが一番『大人げない』のか。


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