ぼくが中学1年の頃、テレビで竹脇無我主演の『姿三四郎』が始まった。 そこでも山嵐をやっているのだが、本で見た山嵐とは違っていた。 いったいどちらが本物の山嵐なんだろう? この疑問が心の中に大きく居座った。 しかし、それを知るすべがない。 何せ明治中期にやっていた技であるから、動画など残っているはずもない。 西郷の山嵐を見た人がいるのは確かである。 だが、ぼくが柔道を始めた1970年頃に、そういう人たちが何人残っていただろうか。
小説の『姿三四郎』の解説に書いてあったが、姿三四郎のモデルである西郷四郎は、『西郷の前に西郷なく、西郷の後に西郷なし』と謳われたほどの天才であったという。 明治時代、日本人の身長は一般に低かったと言われているが、西郷はその中でもひときわ低かったらしい。 それが山嵐に適していたというのだ。 また、彼の足は鎌のような形をしており、それが相手の足を払うのに適していたという。
「山嵐に適していた…」と書いて思い出した。 ぼくが高校1年生の頃、他校に合同練習をしに行ったことがある。 その高校の2年生に『テッちゃん』と呼ばれている人がいた。 この人は体格はよかったものの、そこにいた誰よりも背の低い人で、さほど強そうには見えなかった。 そのためぼくは、「この人補欠かな?」と思ったくらいである。 ところがいざ練習をやってみると、強い強い。 このテッちゃんは背負い投げ一本の人だったが、背負い投げが来るとわかっていても防ぐことが出来なかった。 普通背負い投げをかける場合、体をかがめなければならないから、どうしても一瞬タメができるのだが、テッちゃんにはそれがなかった。 それもそのはず、テッちゃんは体をかがめる必要がなかったのだ。 つまり普通に回れ右をすれば、この技に入れたということだ。 多少柔道をかじっている者なら、誰でもこのタメで「背負いが来るな」とわかる。 だが、テッちゃんの場合、それを悟らせなかった。 前触れなく背負いが飛んでくるのだ。 そのため、ぼくには防ぎようがなく、何度も畳にたたきつけられた。
やはり技には人それぞれに向き不向きがあるということだ。 ということなので、ぼくが苦労した『ひざ車』は、ぼくには向いてなかったと言えるだろう。
話を元に戻す。 姿三四郎の解説を読んで、ひとつ引っかかることがあった。 それは『西郷の前に西郷なく、西郷の後に西郷なし』という言葉である。 そう書かれると、「なるほど天才」と思うが、柔道の天才と言われた人は何も西郷だけではない。 その当時でさえ、講道館四天王(西郷も含む)と呼ばれた人がいるのだ。 西郷だけがずば抜けて強かったのなら、四天王という呼び方はしないはずである。
そこでぼくは考えた。 これを広く柔道という意味でとらえずに、山嵐に限定したらどうだろう。 すると見えてくるものがある。 それは、山嵐という技は西郷以外にやった人がいない、ということである。 実際、資料などを読んでも、西郷以外に山嵐をやった人間はいないのだ。 つまり、山嵐という技は、西郷四郎が編み出したオリジナルだったということになる。
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