小学生の頃の夏休みの思い出といえば、やはり炎天下にやっていた草野球だった。 ほとんど毎日、ぼくの家の前の広場でやっていた。 気分が乗らない日もあったが、決まって誰かが誘いに来るので、結局やるはめになる。 当時、ぼくの住んでいた地区には貧乏人が多かった。 そのため、みんな夏休みだからと言って、どこかに遊びに連れて行ってもらうことはなかった。
とはいえ、たまには「おれ、明日から3日間いなかに帰るけ」などという奴もいた。 それを聞いた誰もが「えっ、いなかに帰るんか!?」と驚きと羨望の入り混じった声を上げた。 「で、いなかはどこなんか?」 「猪○」 「そうか、猪○か。いいのう」 とは言ったものの、その猪○がどこにあるのか誰も知らなかった。 みんなの連想では、「猪○→いなか→空気がいい→水がきれい→スイカがなっている→昆虫の宝庫→カブトムシやクワガタがいる」だった。 そのため、工場街に隣接する地域に住んでいるぼくたちにとって、猪○は憧れの場所となった。 ところが、後年、その場所を知って愕然とした。 そこは、うちから車で15分とかかからない場所で、ちゃんと工場もあり、そこそこ空気も汚れていたのだ。 川はあるものの、川幅も狭く、水も汚かった。
しかし、『いなか』という響きはよかった。 ある日、母に「ねえ、うちのいなかはどこなん?」と聞いてみた。 母は大阪で育っているので、もしかしたらその辺に『いなか』なるものが残っているのではないかと思ったわけである。 母は「いなかなんかないよ」と素っ気なく答えた。 その時の寂しかったことといったらなかった。
夏休みの頃のぼくの楽しみといえば、区内にある伯父の家に泊まりに行くことだった。 いつもお盆過ぎに行っていたのだが、そこは『いなか』ではなかった。 伯父は5階建ての社宅群の一角に住んでいた。 チンチン電車がその前を走り、社宅以外にもそのクラスのビルがたくさん建っていた。 ぼくの住んでいた地域には当時一つしかなかった信号機が、そこには無数に存在した。 市営プールがあり、野球場や陸上競技場やテニスコートがある。 近くには大きなスーパーマーケットがあり、アーケード街があり、映画館まであった。 ぼくにはとっては、まさに大都会だったのだ。
さて、そこに行って何をやっていたのか。 別に外に出て遊んでいたわけではない。 そこには従兄弟がいた。 3人兄弟で、歳はみなぼくより10歳近く上だった。 そのためマンガなどは一切置いてなかったのだが、実に興味深い本がそこにはあった。 それは『平凡』や『明星』である。 そこでぼくは加山雄三を知り、グループサウンズを知ることとなった。 付録の歌本を持っては、屋上に上り、歌をうたっていたものだ。
伯父の家にはだいたい3日くらい滞在した。 最初は1週間の予定で行くのだが、周りが大人ばかりなのでだんだん飽きてくる。 そこで、伯父の家からそう遠くないところで働いていた母に「もう帰る」と言って電話し、夜迎えに来てもらっていた。 そして翌日から、再び野球三昧の日々が続く。 ぼくの小学生時代の夏休みというのは、だいたいこんなパターンだった。
ところで、ぼくが伯父の家に行ったと言っても、誰も驚かなかった。 なぜなら、そこは『いなか』ではなかったからだ。 街に行くことは誰も羨まなかった。 やはり『いなか』が憧れだったのだ。
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