頑張る40代!plus

2004年07月18日(日) いなか

小学生の頃の夏休みの思い出といえば、やはり炎天下にやっていた草野球だった。
ほとんど毎日、ぼくの家の前の広場でやっていた。
気分が乗らない日もあったが、決まって誰かが誘いに来るので、結局やるはめになる。
当時、ぼくの住んでいた地区には貧乏人が多かった。
そのため、みんな夏休みだからと言って、どこかに遊びに連れて行ってもらうことはなかった。

とはいえ、たまには「おれ、明日から3日間いなかに帰るけ」などという奴もいた。
それを聞いた誰もが「えっ、いなかに帰るんか!?」と驚きと羨望の入り混じった声を上げた。
「で、いなかはどこなんか?」
「猪○」
「そうか、猪○か。いいのう」
とは言ったものの、その猪○がどこにあるのか誰も知らなかった。
みんなの連想では、「猪○→いなか→空気がいい→水がきれい→スイカがなっている→昆虫の宝庫→カブトムシやクワガタがいる」だった。
そのため、工場街に隣接する地域に住んでいるぼくたちにとって、猪○は憧れの場所となった。
ところが、後年、その場所を知って愕然とした。
そこは、うちから車で15分とかかからない場所で、ちゃんと工場もあり、そこそこ空気も汚れていたのだ。
川はあるものの、川幅も狭く、水も汚かった。

しかし、『いなか』という響きはよかった。
ある日、母に「ねえ、うちのいなかはどこなん?」と聞いてみた。
母は大阪で育っているので、もしかしたらその辺に『いなか』なるものが残っているのではないかと思ったわけである。
母は「いなかなんかないよ」と素っ気なく答えた。
その時の寂しかったことといったらなかった。

夏休みの頃のぼくの楽しみといえば、区内にある伯父の家に泊まりに行くことだった。
いつもお盆過ぎに行っていたのだが、そこは『いなか』ではなかった。
伯父は5階建ての社宅群の一角に住んでいた。
チンチン電車がその前を走り、社宅以外にもそのクラスのビルがたくさん建っていた。
ぼくの住んでいた地域には当時一つしかなかった信号機が、そこには無数に存在した。
市営プールがあり、野球場や陸上競技場やテニスコートがある。
近くには大きなスーパーマーケットがあり、アーケード街があり、映画館まであった。
ぼくにはとっては、まさに大都会だったのだ。

さて、そこに行って何をやっていたのか。
別に外に出て遊んでいたわけではない。
そこには従兄弟がいた。
3人兄弟で、歳はみなぼくより10歳近く上だった。
そのためマンガなどは一切置いてなかったのだが、実に興味深い本がそこにはあった。
それは『平凡』や『明星』である。
そこでぼくは加山雄三を知り、グループサウンズを知ることとなった。
付録の歌本を持っては、屋上に上り、歌をうたっていたものだ。

伯父の家にはだいたい3日くらい滞在した。
最初は1週間の予定で行くのだが、周りが大人ばかりなのでだんだん飽きてくる。
そこで、伯父の家からそう遠くないところで働いていた母に「もう帰る」と言って電話し、夜迎えに来てもらっていた。
そして翌日から、再び野球三昧の日々が続く。
ぼくの小学生時代の夏休みというのは、だいたいこんなパターンだった。

ところで、ぼくが伯父の家に行ったと言っても、誰も驚かなかった。
なぜなら、そこは『いなか』ではなかったからだ。
街に行くことは誰も羨まなかった。
やはり『いなか』が憧れだったのだ。


 < 過去  INDEX  未来 >


しろげしんた [MAIL] [HOMEPAGE]

My追加