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2004年07月11日(日) 金剛経のこと(後)

ということは、武道の極意もこのお経の中にあるのだろう。
そしてその極意中の極意が『応無所住而生其心』ということになるのだろうが、この言葉、言うにやさしいが、実践となると実に難しい。
武道を極めていないぼくには、到底届かない境地である。
が、せっかくこの世に生まれてきたのである。
ちょっとでいいから、この境地を味わってみたいものだ。
かといって、刀など振り回すことは出来ないから、せめて念仏代わりにこの言葉を唱えてみることにするか。

金剛経について、こういう話がある。
昔、ある婆さんが、坊さんから「『応無所住而生其心』、この言葉は実に霊験あらたかで、毎日毎日唱えていると願い事が叶う」と教えられた。
それを信じた婆さんは、出る息入る息をこの言葉に換えて唱えることにしたのだが、婆さん、ここでとんだ間違いをしてしまった。
その『応無所住而生其心』を、『大麦小麦二升五合』と聞き違えていたのだ。
もちろん婆さんは、その後ずっと『大麦小麦二升五合』と唱えていた。
ところが、婆さんに霊験が現れた。
何と、病人を前にして『大麦小麦二升五合』と唱えると、その人の病気が治るようになったのだ。
それが評判を呼び、多くの人が婆さんの元にやってくるようになった。
ある日、評判を聞きつけて、ある修行僧がやってきた。
その僧が婆さんの唱える言葉を聞いていると、どうもおかしい。
そこで、坊さんは婆さんに「婆さん、それは違う。正しくは『応無所住而生其心』と言うんだ」と言った。
「そうか、違っていたのか」と思った婆さんは、それ以来正しく『応無所住而生其心』と唱えるようになった。
ところがそう唱え出してから、病気を治すことが出来なくなったという。

この婆さんは心に障りを作ったんだな。
つまり、婆さんにとって『大麦小麦二升五合』は無念無想だったわけだ。
ところが、正しく『応無所住而生其心』と唱えようとすることで、心に力みが出来てしまった。
そこには、もはや無念無想はない。
疑心が残るだけである。

しかし、これがまたややこしい。
執着するつもりはないのに執着してしまうのが、心なのだ。
他のことに執着しないようになったとしても、「執着しない」という思いに執着してしまう。
まことに心というのは扱いにくい。
しかし、これをクリアしないと、無念無想にはなれないのだ。
執着無く『応無所住而生其心』と唱えられるようになるまでに、いったいどのくらいの時間を要することだろう。
「ちょっと体験したい」というような不埒な気持ちでやっていたら、何度生まれ変わっても無念無想なんて味わえないだろう。


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