| 2004年06月12日(土) |
佐世保の事件を受けて |
【1】 「なんか、ああいう事件があると、パソコンが悪者みたいに見えるね」 佐世保の事件を受けての、ある人の意見である。 こういうことを言わせているのは、いつも教育者であり、マスコミである。 彼らは目の付け所がずれているように思える。 パソコンが原因だと言われると、パソコンをやめさせようとする。 カッターで人を傷つけたとなると、カッターを持たせないようにする。 いつも、そこには心の問題というのが欠落している。 きっと自分たちが心の教育を怠ってきたから、その責任を物に転嫁しようとしているのだろう。 いや、心の教育を怠ってきたこともわからないのが実状なのではないだろうか。
【2】 こういう事件が起きるたびに、いつもその学校の校長が、 「全校集会で、命の尊さを生徒たちに言って聞かせた」 などと言っているのを聞くが、では普段は、いったいどういうことを言って聞かせているのだろうか? きっと大したことは言ってないのだと思う。 事件が起きて初めて「言って聞かせ」るような教育が、また次の事件を引き起こすのだ。 つまり、付け焼き刃的な教育では、何も効果がないということである。
【3】 それにしても、こういう大切なことを、通り一遍の学校教育の範疇で教えようとするのに問題はありはしないだろうか。 思うに、学校教育だけの命の尊さなんて、ちっとも尊くはない。 宗教と離れた、政治の一環である学校教育で、命の尊さを教えようとするほうが、土台無理なのだ。 そういう時こそ、その方面の専門である、坊さんや牧師さんを学校に招いて、説法してもらうがいい。 彼らは心の問題のプロだから、大上段に「言って聞かせる」ようなことはしない。 わかりやすい言葉で教え諭し、そして学ばせることをするだろう。
【4】 小学校5,6年生の頃、ぼくのクラスの担任は敬虔なクリスチャンだった。 別に、先生は宗教的なことを言って聞かせるようなことはなかったが、その立居振舞にぼくたちは、少なからず影響を受けたものだった。 むやみに生徒を叱ることはしなかったが、かといって甘やかすようなこともしなかった。 一度、クラスで友人がケガをする事件が起きた。 先生は、何も言わず涙を見せた。 その時誰もが、 「この先生を泣かせたらいけん」 と思ったものだった。 その後クラスはまとまり、けんか一つなくなった。
【5】 中学1年の時だった。 3年生が、みんなを脅かせてやろうと思い、首を吊る真似をしていたら、本当に首を吊ってしまい、死に到った事件があった。 その時、3年の不良と呼ばれていた、普段は刃物をポケットに入れているような人たちが、こぞってその人の家に線香を上げに行き、涙を流したという。 素行はどうあれ、少なくとも彼らは、命の尊さを充分に知っていたのだ。
【6】 「都会では自殺する若者が増えている〜」という陽水の歌が流行った頃、ぼくの周りでも数人の人間が自殺した。 それを受けて、先生たちは諄々と命の尊さを教えてくれた。 今と違うことは、その当時はまだ戦争を経験している先生が多くいたことだ。 それ故に、先生の吐く言葉には説得力があった。 また、戦時中のことを親たちから聞いて知っているぼくたちの世代は、その言葉を受け止める下地があったのだ。 そういった意味では、今の子供たちは、不幸であると言えるだろう。
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