老子に、『無為にして為さざるなし』という言葉がある。 60年代後半にヒッピーなる人たちが現れたが、彼らのバイブルが老子であり、その考え方の根幹がこの言葉だったという。
さて、この無為という言葉だが、一般には「何もしない」という意味だと思われている。 確かにそういう意味もあるのだが、老子はそういうふうにこの言葉を用いているのではない。 彼は、「何をしないことをする」というニュアンスで、この言葉を用いたのだ。 「何もしない」と「何もしないことをする」、この二つの意味は似ているが、微妙に違っている。 前者は受動的で、後者は能動的である。
この二つの意味を、ぼくは「なるがままに」と「何とかなる」という言葉で解釈している。 確かにぼくも、初めて老子を読んだ時は、「なるがままに」というふうに捉えていた。 そして、その「なるがままに」を実践していた。 が、次第に目に力がなくなり、覇気がなくなっていくのを感じた。 厭世観というのか、だんだんやる気さえ失ってしまった。 「老子も厭世観の人だったのか?」と思い、いろいろな書物を調べてみると、どうもそういう人ではなかったらしい。 「なるがままに」、と、こんなことを言いながらも、一番の関心事は政治だったというから、実にしたたか者である、と当時は思っていた。 が、後年それが間違いだと気づいた。 彼は政治の要諦として、「無手勝流がよい」と説いていたのだ。 最初から規範などを作ってしまうと、人はそこから外れることを悪と考えるようになる。 そうなると、臨機応変の対応が出来なくなり、だんだん政治は停滞していく。 そこで、老子は臨機応変に対応出来る「無手勝流」が一番、と説いたのだ。
その「無手勝流」を、ぼくは「何とかなる」というふうに捉えたわけだ。 そう捉えて以来、ぼくは「なるがままに」などとは言わなくなった。 というより、考えなくなった。 何か事が起こると、「何とかなる」と思うようになったのだ。
ぼくが、今住んでいるのはマンションである。 賃貸ではなく、購入したものだ。 ある日のこと、何気なく朝刊に入っていた折り込みチラシを見ていると、「マンション分譲開始」という文字が目に飛び込んできた。 場所を見ると、実家のすぐそばである。 その日まで、マンションなんてまったく興味がなかったのだが、そのチラシを見て、なぜか「モデルルームを見に行こう」という気になった。 そこでその日の午後、ぼくはそのマンションに行ってみた。 一通り説明を受け、モデルルームを見せてもらった。 その時だった。 「予約します」というセリフが、勝手に口をついて出た。
そういうつもりは毛頭なかった。 このマンションを買った当時、ぼくの年収は少なかった。 しかも、その頃ぼくは、車のローンも抱えていた。 こんな性格だから、貯金があるわけでもなかった。 それでも、そう言ったことに対する後悔は一切なかった。 その時、頭の中にあったのは、「何とかなるやろう」言葉だった。 あれから、数年経つ。 「なるがままに」と諦めるのではなく、「何とかなる」という信念を持って事に当たったことがよかったのか、今のところ不思議と何とかなっている。
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