何十年かぶりに歌の練習を始めた。 歌と言ってもカラオケではなく、弾き語りである。 何かのオーディションを受けるとか、そんなことではなく、ただ趣味として漠然とやりたくなったのだ。 そのため、ハーモニカにも手を付けることになったのだ。 その際、問題になるのが練習場所である。
東京にいる頃、ぼくは下宿先でいつもひんしゅくを買っていた。 それは、騒音である。 とにかく、朝から夜までギターをジャンジャン奏で、歌をガンガン歌っていたものだから、防音もしてない築数十年の木造下宿の中はかなり音が響いていたことだろう。
下宿のおばさんも、これには参ったらしく、「昼間はいいけど、夜は音を小さくしてくれませんか」と言ってきた。 「はあ、わかりました」とは言ったものの、こちらはエレキを弾いているわけではないので、音の絞りようがない。 仕方なく、歌声だけを小さくした。
こちらがあちらの言い分を飲んだわけであるから、昼間は大音響でやらせてもらうことにした。 ところが、今度は隣の部屋の住人が文句を言ってきた。 いや、言ってきたのではなく、書いてきたのだ。 トイレに行こうと、部屋を出ようとしたら、扉の下に一枚の紙が置いてあった。 見ると、「もう少し、音を小さくして下さい」と書いてある。 これ以上どうしろと言うのだ。
ただの練習なら、夜のように歌声を小さくすることも出来る。 しかし、ぼくにはそれが出来ない事情があった。 当時、レコードプレーヤー付きの質の悪いテープデッキしかもってなく、デモテープを作る際、大きな音でやらないと録音が出来なかったのだ。
夜はだめ、昼もだめ、ということは、下宿の中ではだめだということである。 下宿の中でだめということは、当然外でやるしかない。 路上では無理である。 ということは、公園で、ということになる。 が、わざわざテープを持ち出して、外で録音するなんて出来るはずがない。 何よりも電源が取れない。 デッキは1電源方式だったので、電池も使えない。 仮に電池を使えたとしても、他の音を拾ってしまうからだめである。
こうなれば、下宿でやる時間を短くするしかない。 公園で練習して、家に帰って一発録りするしかない。 そこで、公園ライブが始まった。 もちろん、人に聞かせるためではなく、あくまでも自分の練習としてである。 聞かせるわけではないから、まともに歌うわけではない。 途中で引っかかれば、また最初からやり直したり、ギターでつまずけば、その部分だけを集中して何度も練習する。 合間に、「こうじゃない」とか「こんな簡単なことが、何で出きんとか」などと独り言が入る。 そういうことばかりやっていたから、最初は物珍しげに立ち止まる人がいたが、だんだん寄りつかなくなっていた。 まあ、そのほうがぼくにとっては、気が楽だった。
|