人間の好奇心というのは、自分の未来に対して最も旺盛なのではないだろうか。 将来どういう自分になっているのか知りたい、という人がいるかもしれない。 あと何年生きられるか知りたい、と思っている人もいるかもしれない。 若い人なら、あの人と将来結ばれるかどうかを知りたい、という人もいるだろう。 そんなに遠くのことを考えないという人でも、例えば明日明後日のことだとか、一年後のことは、垣間見てみたいと思っているのではないだろうか。
九月のことだったが、ぼくはダイエーの優勝が近づいた時、ほとんどの試合を録画しておいた。 それは、優勝の決定試合を収めておきたかったからだ。 面白いもので、野球の試合を録画すると、中継やスポーツニュースを一切見たくなくなるものだ。 その録画を見るまでは、絶対に結果を知りたくないからである。 知ってしまうと、もう見たくなくなるのだ。
もしかしたら、人が未来のことを知ってしまうと、野球録画の場合と同じようなことになるのではないだろうか。 未来を知ってしまったから、もう何も努力したくないなどという人が出てくるだろう。 そこには、未来を知ったからそうなったという、因果関係があるのだろうが。 中には未来の自分の姿を知ってしまったがために、悲観して自殺するという人も出てくるかもしれない。 しかし、自分が見た未来まで、その人は死ぬことが出来ない。 きっと、その後その人は、未来を見たことを後悔するだろう。
今ぼくは、10年後の生活を知りたいと切に思っている。 その頃定年を迎えるが、それまで今の仕事を続けているのだろうか。 今、いろいろなローンを抱えているが、その頃には無事に払い終えているだろうか。 そういうことが、今一番の関心事であるからだ。
今日、ふと「そういうことを考える歳になったんだなあ」などと感慨に耽っていた。 ところが、古い書き残しなどを見てみると、いつの時代もそういうことを書いてある。 例えば76年のノートには「10年後、ぼくはいったいどういうなっているのだろう」などと書いている。 そういえば、その頃から急に占いに興味を示しだしたのだ。
しかし、もしその時に未来のことがわかってしまっていたら、いったいぼくはどうなっていただろうか。 そう考えるのは、86年の自分が76年当時に期待していた自分になってなかったからだ。 仕事にしても然り、恋愛にしても然りである。 もし、その当時未来を知ってしまっていたら、おそらく悲観して何の望みも持てなかっただろう。
やはり、未来を知りたいという好奇心よりも、未来はこうなっていようという想像力のほうが大切なのだろう。
はい、頑張ります。
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