【人生のほら吹き】 山高帽子をかぶって 楽しそうに振る舞うんだ おれは人生のほら吹き そう、ほら吹きだから ポケットに手を突っ込んで 寂しそうに振る舞うんだ おれは人生のほら吹き そう、ほら吹きだから
雨が降っても寂しくはないよ いつも心の中はウソだらけ 風が吹いても怖くはないよ 人生をごまかしているから
おれはいつも一人だよ 誰の手も借りないよ おれは人生のほら吹き そう、ほら吹きだから
金も持ってないくせに 酒に酔った振りをするんだ おれは人生のほら吹き そう、ほら吹きだから
闇に浮かんだ月が笑う ちっぽけなはにかみ屋さん 通りがかりの風が歌う もうお帰り、寂しがり屋さん
おれはいつも一人だよ 誰の手も借りないよ おれは人生のほら吹き そう、ほら吹きだから
高校3年の時に書いたものだ。 これを書いた時、きっと何かに取り憑かれたのだろう。 なぜなら、それ以来、ぼくの人生はこの詩の通りになっているからだ。
それはどういうことかというと、いつもフリをしている人間になったということだ。 例えば、前の会社で、ぼくは強気な人間として通っていた。 それは、ぼくがそういうふうに振る舞い、そういう人間だと見せていたからだ。 しかし、内心はいつもビクビクしていた。
また、何かことをやらかすたびに、「これも目的にたどり着く過程だ」などと、妙に達観したような態度を取っていた。 しかし、内心はそうではなく、「こんなことで、これからどうなってしまうのだろう」と、いつも将来を案じていた。
「ボーっとしている」とか、「細かいことを気にせんタイプやのう」とか、よく人から言われる。 しかし、実際は神経がピリピリしている。 その上に、取り越し苦労の固まりでもある。
何度も「これ以上人生を嘘で固めるのはまっぴらだ。これからは地で生きてやる」と思ったことがあるが、嘘の積み重ねは、本来の自分を完全に忘れさせてしまっている。 「嘘の数が白髪の数になっているのかもしれない」と思うこともある。 それだけ自分の嘘に、心を痛めているということだ。
この日記だって例外ではないかもしれない。 そういう生き方に嫌気がさしていたので、本来の自分でいたいと思う気持ちから、このホームページを始めたのだが、案外無意識のうちに、架空の自分を演出しているところがあるのかもしれない。 そうであれば、本来のぼくとかけ離れた『しろげしんた像』が出来上がっていることだろう。 この日記を読む人は、しろげしんたを、いったいどんな人物として捉えているのだろうか? そういうことを知りたい気もする。 しかし、元来の臆病者であるぼくは、そういう声を怖がっている。
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