どこかでか見たことがある場所なのだが、それがどこかわからない。 どこかで経験したことがあるのだが、それをどこで経験したのかわからない。 そんな夢を見ることが、時々ある。
目が覚めて、「さて、どこで見て、どこで経験したのだろう」と記憶をたどってみても、それがどうも今の人生に繋がらない。 しかも、それらの夢に出てくる風景は、ひと時代もふた時代も昔の風景なのだ。 ぼくが知らない時代の風景なのに、実にリアルなのだ。 その夢が心を占めた時、なぜかカビ臭いモノクロ映画を見ているような状態になる。
何度かそういう夢を見たのだが、はっきり覚えているのは次の三つの夢である。 一つは、花街の夢で、真夜中、そこを屋根伝いに逃げているのだ。 月が辺りを照らしているが、街灯などは一切ない。 おそらく、かなり古い時代のものだろう。 二つ目は、昭和20年代の工場の風景で、当時の電気配線や作業着が、実にリアルに描かれていた。 夕方のサイレンが鳴り、友人たちと、「さて野球でもしようか」などと言っている夢だった。 三度目は、明治の頃だったろうか。 大きな風呂敷包みを背負い、どこかの街道を歩いている。 すると、急に雨が降り出したため、農家の軒先で雨宿りしている情景である。 どの夢も、どこかで見たことがある風景で、どこかで経験したことなのだ。
今日、そういうことを描いたマンガに出会った。 そのマンガによると、どうもそれは前世の記憶らしいのだ。 『生命というのは一種のエネルギーで、エネルギーは不滅だから、たとえある生き物が死んだとしても、その生命はすぐまた別の生命体にやどる』 そのマンガの作者である手塚治虫は、こういうふうに述べている。 ぼくが今までに見たその手の夢は、いつも時代が違っている。 もしかしたら、前世、前々世、前々々世の時代にぼくが経験したことが、ランダムに夢として出てきているのかもしれない。
ということは、今の人生の風景も、次の人生の中で夢見る可能性もあるということだ。 それはいったい、いつの頃の風景や出来事なのだろうか。 追試の勉強で焦っている姿や、浪人時代の夢などは見たくない。 いつも辛い思いをしていた、前の会社時代なんかの夢もだめだ。 日記のネタで苦闘している姿も見るのは嫌だ。 胃けいれんで死ぬ思いをしたこととか、歩道橋の手すりで頭をぶつけ流血したことも却下する。 また、虫歯の痛みを感じるような夢もだめだ。 願わくば、高校時代の一番輝いていた時期のことを、夢見させてほしいものである。
|