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2003年07月21日(月) 通勤風景に見る歴史 前編

何気なく通っている通勤路だが、今日ふと、いろいろな歴史を持っているというのに気づいた。

家を出て、まず最初に目に映るのが洞海湾である。
昔は「洞海(くきのうみ)」と呼ばれたところで、その名は日本書紀にも見えている。
熊襲征伐の時、仲哀天皇は神功皇后を同行した。
その際、仲哀天皇は筑前芦屋(芦屋釜で有名である)の山鹿を経由し、神功皇后は洞海を経由して九州入りしたという。
日本書紀には載ってないが、その時、神功皇后が海の中で光るものを見つけた。
引き上げてみると、それは石であった。
神功皇后は丁重にその石をお祭りしたという。
それが、若松恵比寿神社のご神体だと言われている。

洞海湾から工場地帯に入っていく。
三菱マテリアル・三菱化学といった大工場を過ぎると、黒崎に入る。
この黒崎には、長崎街道の面影が残っている。
北九州プリンスホテルの横に、曲里の松並木という通りがあるのだが、そこがそうである。
江戸時代、下関から黒崎へ行く連絡船があった。
豊前に入らずに、直接筑前に入る船である。
太宰府などに行く場合は、そちらのほうが速い。
以前、小倉から黒崎まで歩いたことがあるのだが、およそ2時間かかった。
門司港からだと、3〜4時間は優にかかるだろう。
しかも、江戸時代は今みたいに道路の整備などされてなかっただろうし、国境には関所もあっただろうから、そんなに早く黒崎に着くことはなかったのではないだろうか。
船だとその時間が短縮される。
あの坂本龍馬もその船を利用したと、司馬遼太郎の『竜馬が行く』に書いてあった。

黒崎にはもう一つ歴史がある。
話は古代に戻る。
神武天皇が東征の際、拠点としたのが筑紫の国・岡水門(おかのみなと)である。
現在、この岡水門は、遠賀郡芦屋町にある岡湊神社のことというのが定説になっている。
しかし、黒崎の岡田神社という説もある。
ぼくはその説をとる。
なぜなら、神武天皇は豊前宇佐から登ってきたと言われている。
ということは陸伝いでも海伝いでも、地理的には黒崎のほうが手前にあるということだ。
東に攻め入るのに、わざわざ遠い場所を選ぶだろうか。
また、洞海湾は自然が作った要塞である。
現在若戸大橋がかかっているところが自然の水門になっている。
そこを固めておけば、そうそう敵に侵入されることもない。
しかるに、芦屋の場合はどう見ても門という感じではない。
ただの河口である。
これでは敵の侵入をやすやすと受け入れてしまう。
この岡湊神社と岡田神社、どちらも祭神は神武天皇だと聞く。
ちなみに、岡湊・岡田の岡は、遠賀の旧名である。


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