夕方のこと、隣の薬局の先生から声がかかった。 「しんちゃーん、ちょっと」 「なんですか?」 「しんちゃん、明日休みかねえ?」 「いえ、出勤ですけど」 「ああ、じゃあよかった」 「何が?」 「いや、ぼくは明日母の米寿の祝いがあって休むんよね」 「そうですか」 「でね、明日ちょっと売場を見てほしいんやけど」 「えっ、薬局をですか!?」 「うん」 「そんなの出来るわけないやないですか」 「いや、簡単よ」 「『胃薬下さい』と言われて、風邪薬渡したらどうするんですか?」
まあ、そこは調剤薬局ではなく市販の薬を売っているだけだから、効能書通りに売ればいいわけだが、薬品といえば、とうてい素人で手に負えるような代物ではない。 これほど専門知識のいる商品は、他にはないだろう。 一歩間違えば、大変なことになる。 そこでは、販売キャリアなど何の役にも立たない。 一度、先生の接客を聴いたことがあるのだが、 「どうありますか?」 「胃がチクチクするんです」 「ほう、胃がチクチクする」 「はい」 「どういう具合にチクチクするんですか?」 と、まさに医者の問診である。 いくら販売キャリアを積んでいるとはいえ、薬に関しては全く素人のぼくにそんな問診まがいの接客が出来るはずがない。
結局は断った。 が、先生は他の要求をしてきた。 「じゃあ、しんちゃん、帰る時にあのシャッターと電源を切っとってくれん?」 と、ドリンク用の保冷庫を指さした。 「そのくらいはいいですけど」 「じゃあ、お願いね」 「忘れんかったらやっときます」 「え? しんちゃん、物忘れがひどいんかねえ?」 「風邪引いて、ボーっとしてますから」 「ああ、そうやったねぇ。じゃあ、こうしよう。明日の夕方、しんちゃんに電話するけ。それなら忘れんやろ?」 「ああ、それならいいですよ」 ということで、ぼくは承諾した。
ところで、風邪を引いていると、普段は考えないようなことを考えてしまうから不思議である。 実は、先生に頼まれた時から、そのことが気になっているのだ。 「果たして、明日はちゃんと約束通りに、電源を切って帰れるのだろうか?」 なんて、やたら神経質なことを考えている。 かと思うと、 「明日は楽しい日曜日だぜ〜♪」 などと、能天気なことを考えている。 どうも今回の風邪は、精神状態にも支障を来しているようだ。
ああ、そうだった。 先生に、約束の代償として、風邪を一発で吹っ飛ばす薬をもらっておくべきだった。 こういうことにも頭が回らなくなっているのか。 今回の風邪は、けっこう深刻である。
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