1957年11月、この世に生を受ける。 この日、空は快晴であったという。 しかしその後、誕生日に晴れたことがない。
1961年8月、父死去。 会社での事故で、即死だったという。 しかし、会社側はそれを隠し、救急車で搬送中に死亡と発表。 夜中のこと、家のドアをたたく音がした。 ぼくはまだ3歳だったのだが、何となくそれがよくない知らせだと直感した。 翌朝、病院に駆けつけた。 青白い顔をして横たわった父親の姿がそこにあった。 ぼくは、まだ死というものがわからずに、不思議な気持ちで父親の顔を見ていた。 それからの記憶は、葬式に飛んでいる。 人がたくさん集まるのが嬉しく、お菓子を食べられるのが嬉しく、ビールの泡をもらえるのが嬉しくて、ただただひたすら喜んでいた。 そんなぼくを、親戚が哀れんで見ている写真がある。 おそらく父親がいないということで、暗い人生を送るのではないかと案じていたのだろう。 が、親戚一同の心配するような方向に、ぼくは行かなかった。 ぼくの人生で父のことは、この時点で終わっている。 その後は、普通の悪ガキとして成長する。
1962年、近くのカトリック系の保育園に入園。 2年保育で、年少の時、お遊戯会で『殿様道中』という踊りの主役を務める。 が、踊りが下手で、主役の座を降ろされそうになる。 「しんた君はいつまでたっても踊りがうまくならんねえ」 「踊り、好かんもん」 「じゃあ、殿様の役かえるよ」 「いいよ」 「そんなこと言わないで、ちゃんと踊りの練習しなさい」 ということで、殿様の役はおろされなかった。 しかし、それ以来、踊りやダンスといったものに拒否反応を示すようになる。 後年、ディスコブームの時、何度か新宿歌舞伎町のディスコに行ったことがあるのだが、ぼくは踊りもせず酒ばかり飲んでいた。 友人は「踊ろうよ」と声をかけてきたが、ぼくは「男が、そんなチャラチャラしたことは出来ん」と言って逃げ回っていた。 それも、保育園時代の『殿様道中』がトラウマになっているのだと思う。
1963年8月、登園拒否。 ぼくの通った保育園は、夏休みが8月20日までだった。 「さて、今日からまた保育園だ」と思って外を見ると、小学生が遊んでいるではないか。 どうしたことだろうと尋ねてみると、小学校は8月31日まで夏休みだと言う。 「じゃあ、保育園がおかしいんだ」と思ったぼくは、制服を脱ぎ、その小学生たちといっしょに遊んだ。 結局、そのまま8月31日まで保育園には行かなかった。 園友たちから、「どうして保育園に来んかったんか」とさんざん文句を言われた。
1963年10月、運動会。 運動会が終わって、おみやげをもらった。 かなりいいものをもらえると踏んでいたのだが、もらった物は大箱のグリコ(当時50円)だった。 期待を裏切られたぼくは、大声で「何かこれ。50円のグリコやん」と文句を言った。 が、なぜかそれがギャグと受け止められた。 場内は大爆笑になった。 そばにいた叔母が、顔を赤らめて「これっ!」と言った。 家に帰ってから、「ああいう場所で、ああいうことを言うもんではない」とさんざん文句を言われた。
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