はい、今日はぼくの誕生日です。 しかし、公表してなかったのに、なぜわかったんだろう? 昨年何かで言ったのかなあ。 まあ、いいや。
今日で45歳。 あと5年で50歳か。 あっという間だろうなあ。 このサイトも、長くともあと5年で終わってしまうことになる。
今の心境を一休ばりに言えば、「誕生日 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」といったところだろうか。 まあ、長生きというのはぼくの辞書にはないから、「めでたくもなし」というのはないことになる。 ということで、「めでたし、めでたし」である。
めでたいと言えば、昔博多にいた仙涯という名僧を思い出す。 仙涯は、その悟境もさることながら、書画にも優れた人だったという。 ある人が「娘が結婚するので、何か一筆たのみます」と、仙涯のもとにやってきた。 仙涯はさっそく筆をとると、『死ね死ね』と書いた。 依頼人は顔をしかめ、「『死ね死ね』とは、あんまりにございます」と不平を訴えた。 仙涯は涼しい顔をして、「では、続きを書こう」と言い、『と言うまで生きよ 花嫁子』と書き添えた。 『死ね死ねと 言うまで生きよ 花嫁子』 依頼人は、丁重に礼を述べて帰ったという。
「めでたい」を漢字で書くと、「目出度い」となる。 ぼくは小さい頃、よく人から「出目金」などと呼ばれていた。 別に目が出ているわけではない。 ただ目が大きかっただけだ。 小学校も高学年になると、みんなも目が出ているのと、目が大きいのは違うというのがわかったようで、それからは「出目金」などと呼ぶ人はいなくなった。 ただ、相変わらず目にちなんだあだ名で呼ばれてはいた。 「めんぐり」である。 あまり好きなあだ名ではないが、今でもこれをメールアドレスのアカウントなどに使っている。 本当は「しんた」を使いたいのだが、この名前ではなかなかアカウントがとれない。 かといって、他になにも考えつかないから、小学校以来のあだ名でまかなっているわけだ。
「めでたさも 中ぐらいなり おらが春」は一茶の有名な句である。 中ぐらいのめでたさとは、どういうものなのだろうか。 彼の一生を見ると、そういう中庸を保てるような人ではなかったような印象を受ける。 俳句の大家がめでたくて、遺産相続でもめたことがめでたくなかったのだろうか。 そういう場合、人の気持ちというのは負の方に傾くと思うのだが。 もし意中の人から愛を告白されても、家に重病人を抱えていたりしたら、それをハッピーだとは思わないだろう。 「気持ちはうれしいけど、今はそれどころじゃない」となるはずだ。
さて、今日から45歳である。 いいかげん44歳と書くことにうんざりしていたので、しばらくは新鮮な気持ちで年齢を書けることだろう。 また、一級下の者と同学年扱いされなくてすむ。 「しんたさん、失礼ですけど、おいくつですか?」 「44やけど」 「おっ、おれと同い年やん」(急にタメ語である) 「何年生まれ?」 「33年」 「一級下やないか」 というやりとりもしなくてすむ。 めでたいことである。
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