ぼくが小学生の頃は、10月に運動会をやっていた。 だいたい10月10日前後だったと記憶している。 今は運動会といえば、だいたい5月か9月にやっている。 何も好き好んで、汗ばむ季節にやらなくてもいいと思うのだが。 やはり運動会は、10月のさわやかな風の中で行うのがベストだと思う。
さて、ぼくは、柔道を始めてからO脚になったせいもあり、今はあまり足が速くないほうだが、その頃は、まあまあ足の速いほうだった。 よくクラス対抗リレーや紅白対抗リレーに借り出されていた。 かけっこのほうも、だいたい1番だった。 小学6年の時だったが、ハードル走で、運動神経がよく足が速いと言われている男と走ったことがある。 ところが大方の予想に反して、ぼくのほうが速かった。 最初から独走状態だった。 しかし、最後のハードルを飛びそこなってしまった。 足を引っ掛けて転倒、結局その時の順位は5位。 小学校生活最大の汚点を残した。 後に友人に「おれのほうが速かった」とアピールしたが、誰も信じてくれず、「お前が、あいつに勝てるわけないやんか。そんなに言うなら、中学の運動会で証明してみ」と言われた。 中学の時には、もう柔道を始めていたので、かなり足が遅くなっていた。 そのため、ぼくのアピールも無効になってしまった。
これはぼくたちの小学校だけかもしれないが、運動会になると決まって流行るものがあった。 それはサポーターである。 足首にサポーターを着けると、足が速くなるという噂が学校中に流れたのである。 そういえば、足が速いといわれている人間は、みなサポーターを着けている。 「そうか、あいつらの足が速いのは、サポーターのせいだったのか」と、単純なぼくたちは、さっそく文房具屋で、サポーターを買い求めた。 なるほどサポーターを着けると、足が軽い。 「やはり、これを着けると足が速くなるんだ」と勘違いしてしまった。 ある男は、サポーターを10個ばかり買い込み、足中にサポーターをつけていた。 ぼくが「それだけつけると、かなり足が速くなるやろ」と聞くと、その男は「おう、効きよるぞ。足がジンジンしてくるけ」と言った。 「ほんとか! やっぱりサポーターは効くんやのう」 バカなぼくたちのサポーター神話は、その男の一言で不動のものになった。 要は、血行が悪くなって、足が痺れただけである。 結局、サポーター10個男はドベだった。 きっと足が思うように動かなかったのだろう。 情けない・・・。
組体操は5年の時からやった。 「ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ」という先生の笛に合わせて、サボテン、帆掛け舟、扇、ピラミッド、やぐらなどの形を作る。 今やれと言われても、きっと出来ないだろう。 仮に体が動いたとしても、怪我が怖い。 やはり、小学生の頃は、誰も向こう見ずだったのだろう。 ぼくが6年の時、5年生がやぐらの上から落ち、腕を折ったことがある。 今なら親が出てきて大変なことになるが、当時は親が学校のことに口を挟むようことはなかった。 ぼくたちの親は、そのほとんどが大正や昭和一桁生まれなので、聖職である先生に物申すなんてとんでもないことだったのだろう。 もちろん、聖職の先生も誠意を尽くしたのだと思う。 大問題に発展するようなことは、決してなかった。
運動会のメインエベントといえば、何といっても騎馬戦である。 ぼくたちの学校では、騎馬戦と呼ばず、川中島と呼んでいた。 今のように帽子取りや旗取りをするのではなく、真剣勝負だった。 入場する時も、有名なあの「鞭聲粛々 夜河を渡る〜」という詩吟をかけ、演出を盛り上げていた。 大将は、はちまきに三日月マークをつけていて、かっこよかったのを覚えている。 だいたい大将になるのは、体の大きな相撲の強い子だった。 この時ばかりは、PTAの子息であろうが何であろうが、無視である。 先生は勝ちにいっていたのだ。 とにかく、させるほうも、やるほうも、真剣だった。 運動会が終わった後も、しばらく川中島の話題で盛り上がったものだ。 やはり、運動会は騎馬戦が最高である。
運動会の翌日、月曜日が後片付けとなったため、火曜日が代休になることが多かった。 その代休の日に何をやっていたのかというと、近所の子が集まっての運動会ごっこだった。 校長先生の挨拶の真似から始まり、万歳三唱まで、まったく同じようなことをやっていた。 ぼくたちの地域では、毎年2回運動会をやっていたことになる。 休み明けに友人から、「昨日何をしよった?」と聞かれると、いつも「運動会」と答えていた。
|