今日は健康診断だった。 ぼくが受けたのは心電図と採血と血圧測定とレントゲン撮影で、いつものように検便と胃透視は拒否した。 周囲の人が「しておいたほうがいいよ」と言ってくれるのだが、本人に何も自覚症状がないのにする必要もないだろう。 それに、ぼくは病はすべて一過性だと思っているので、自覚症状があっても、あまり気にしない。 何か見つかったとしても、その時たまたま具合が悪かっただけである。 その「たまたま」を見つけた時、健康診断の人は鬼の首を取ったように大騒ぎする。 しかし、健康診断の結果というのは、ただの点なのである。 今回何かが見つかったからといって、次回そうであるとは限らないのである。 どんなことでも、流れを見ずに点だけを見つめると、ろくなことはない。 放っておけば治るものを、変にいじって、もし大病にまで発展したら、彼らはどう責任を取ってくれるのだろう。
よく健康診断で癌が見つかったという話を聞く。 それはもう大騒ぎしている。 「○○さん、健康診断で癌が見つかったらしいよ」 「あら、お気の毒に。まだ若かったのにねえ」 「癌」という一言で、その人は死んだような扱いをされる。 しかし、どんな人にも癌細胞はあると言われている。 ということは、その人は、健康診断で調べた箇所にたまたま癌細胞があっただけの話である。 例えば、胃に癌が見つかったとすれば、その人の癌細胞は胃にある、というだけのことだ。 逆に、他の人はその箇所には癌細胞はないが、他の箇所にはあるということになる。 もし癌というのが死に至る病気だとしたら、双方癌で死ななければならない。 ところが、死ぬのはいつも、健康診断で癌が見つかったほうである。 これはおかしい。 そこでぼくは、「なぜ発見されなかった人が死なないのか」を考えてみた。 一つに、それらの人が癌を気にしなくてすむ、というのがある。 癌は誰もが持っているというのなら、それは自然のことなのだ。 ということは、癌自体は病気ではないということになる。 では、病んでいるのはどこか? 心である。 昔から病気というのは「気を病むこと」と言われているが、ぼくはそうは思わない。 病気というのは、病を気にすることだと思っている。 つまり、病んでいるのは癌の住んでいる肉体ではなく、癌を気にする心だということである。 もう一つは、変に体をいじられなくてすむ、というのがある。 あって当たり前のものを切り刻んだり、薬で殺したりするから、体が変調をきたし、抵抗力をなくし、挙句の果てに死に至ってしまうのだ。
そう考えていくと、「癌は本当に恐ろしいものなのだろうか?」と疑いたくなってくる。 そもそも癌が怖い病気だと世間に植えつけたのは、学者であり医者である。 今更彼らの口から「癌は治る病気である」「癌細胞はどんな人にでもある」、だから「癌を恐れてはならない」などと言われてもねえ。 「癌は怖くない」と信じ込もうとしても、いったん植えつけられた恐怖心は、そう簡単に消えるものではない。 そんな無駄な努力をするよりも、「自分は健康だ」と思い込んで、検診など受けなければいいんだ。 そうすれば、心に余計な負担がかからない。 健康診断とは心に負担をかけるための悪習である。 そんなもの、すぐに止めてしまえ! 誰しも命運尽きれば死ぬのだから、そんなことを気にせずに好きなことをやるのが一番だ、とぼくは思っている。
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