2002年09月17日(火) |
敬老の日特集「じいちゃん」 その3 |
じいちゃんは、いつも最後に風呂に入っていた。 なぜなら、じいちゃんの入った後の風呂は汚かったからだ。 湯船には、いつも白い垢が浮いている。 洗い場で愛用の痰つぼを洗うため、床面はヌルヌルしている。 じいちゃんを先に風呂に入れると、誰も入ろうとしないので、じいちゃんは最後と決まったのである。 じいちゃんが風呂に入る時は、いつも自分の部屋で真っ裸になり、痰つぼを持って風呂場に向かった。 目が悪いので、風呂場への最短コースを歩いていた。 じいちゃんの部屋から風呂場に行くには、応接間を通ったほうが、廊下を通って行くよりもはるかに近い。 そのため、誰が来ていようとかまわずに応接間を通っていった。 もちろん、ふりちん痰つぼスタイルである。 一度従姉の友人(女性)が遊びに来ていた時、じいちゃんがのっそりと、いつもの格好で応接間を歩いて行った。 従姉の友人はしばらく口が開かなかった。
そんなじいちゃんも歳には勝てなかった。 ある日、伯母がじいちゃんが口から血を吐いているのを見つけた。 伯母は慌てて救急車を呼び、病院嫌いのじいちゃんを無理やり入院させた。 入院した病院は、あの水原弘が亡くなった病院だった。 入院しても、じいちゃんは相変わらず好き勝手をやって、病院関係者をてこずらせていた。 大部屋に入れると大声を出して暴れるし、かといって個室に入れるには経済的に負担がかかる。 病院は「こちらでは、お預かりできかねますので、老人専門の病院に移したらどうでしょう。そちらのほうが入院費も安くて済みますので」と言った。
ということで、じいちゃんは小倉の山奥にある、その老人専門の病院に移った。 だがそこでもいっしょだった。 看護婦さんがちょっとでも体を触ろうものなら、痛いのへっぱったの大声を上げていた。 伯母はそれまで勤めていた会社を辞め、献身的に介護に努めた。 家から病院まではかなり距離があったが、ぼくも、何度か見舞いに行った。 ぼくが「じいちゃん、見舞いに来たよ」と言うと、じいちゃんは決まって「お前誰か!?」と言った。 ぼくが「しんたたい」と言うと、じいちゃんは「しんたぁ?」と言ってしばらく黙った。 そして「K(従姉)はどうしたか?」とぼくに聞いた。 この一件で、「やっぱり、ぼくとじいちゃんは合わんのやなあ」と思った。 じいちゃんは死ぬまで従姉のことを気にかけていたという。 まるで、じいちゃんには孫は従姉しかいないようだった。
じいちゃんが死んだのは、ぼくが19歳の時だった。 一浪した末、再び大学に落ち、気がめいっていた時だった。 夜中に伯母から電話が入り、じいちゃんの死を知った。 父親の死は、まだ小さかったので、あまりよく覚えていない。 そのため、じいちゃんの死が、記憶の中では身内の死として初めて経験するものとなった。 初めての経験に妙にワクワクした。 真言宗で行う葬儀を、好奇の目で見ていた。 途中、じいちゃんの名前が出るたびに、おかしくて噴出しそうになった。 涙はなかった。 元々仲はよくなかったし、別居してからかなり時間が経っていたので、その情も薄れてしまっていたのだろう。
じいちゃんが死んでからしばらくの間、ろくなことがなかった。 ぼくが面接で26回落ちたのも、ちょうどこの時期である。 落ちるたびにぼくは、「じいちゃんはおれに恨みでも持っとるんかなあ」と思っていた。 本当にじいちゃんの霊が取り憑いていたのかもしれない。 そのころのぼくの写真を見ると、何か変である。
写真といえば、伯母の家に行くと、壁にじいちゃんの遺影がかかっている。 笑顔もなく、何か苦虫を潰したような表情である。 この遺影を見るたびにいつも思うのだが、ふりちん痰つぼスタイルの時、じいちゃんはいつもこんな顔をしていた。 いったい、その時何を考えていたのだろう? これが今でも謎である。
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