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2002年08月28日(水) あしたのために

ジャブ
−攻撃の突破口を開くため、あるいは敵の出足を止めるため、左パンチを小刻みに打つこと。その際ひじを、左のわき腹の下から離さぬ心がまえで、やや内側を狙い、えぐりこむように打つべし。正確なジャブ3発に続く右パンチは、その威力を3倍にするものなり−

「あしたのジョー」ファンなら、もちろん上の文句を知っているに違いない。
丹下段平が、鑑別所にいる矢吹丈に宛てた、ハガキによるボクシングの通信教育第一弾「あしたのために その一」である。
「打つベーし、打つベーし、打つベーし」と言って、鑑別所のボスであった西を殴る場面は、実に痛快だった。

なぜまた「あしたのジョー」かというと、実はぼくは数週間前から、インターネットでアニメ「あしたのジョー」を見ているのだ。
ぼくは、「あしたのジョー」はマンガでは何度も読んだことがあるのだが、アニメは1度しか見たことがない。
それもリアルタイムに見ていた。
中学生の頃だったから、もはや記憶は薄れている。
しかも、当時はビデオなどなかったので、全部見たわけではない。
あの力石徹との闘いで、ジョーが力石からアッパーカットを食らい敗北したシーン、またその後の、あまりにも有名な力石との握手シーンを見逃している。
あの力石の倒れるシーンは、友だちの演技でしか見たことがない。
いつか全編通して見たいと思っていたのだが、ビデオやLDで全巻揃えるのは、経済的に無理があった。

ところが、最近「ジョー」をインターネットでやっているという情報を得、さっそくそこの会員になった。
そういうわけで、毎日何話かずつ「ジョー」を見ているのだ。

アニメ版とはいえ、セリフはほとんどマンガといっしょである。
「あしたのジョー」というマンガは、少年誌に掲載されていたわりには、言葉が難しく、また哲学的なことを書いた場所も多々見受けられる。
それでも、多くのバカ少年に受けていたのは、その奥に当時の風潮であった自由への憧れがあったからなのかもしれない。
何者にも縛られることなく、ただ己の本能の赴くままに突っ走って行くジョーの姿に感銘を受けたのだろう。
その後、ぼくは吉田拓郎という人に出会うのだが、拓郎にも同じような感銘を受けたのを覚えている。
ぼくが拓郎を好きになったのは、彼の中に「あしたのジョー」を見たからかもしれない。

さて、ジョーには「不可能を可能にする、天性の野生児」という形容があるが、あの言葉が最近ようやくわかってきた。
ジョーを解くキーワードの一つに、「完全燃焼」という言葉がある。
結局ジョーは最後に「真っ白な灰」になるのであるが、彼にはその真っ白になるための起爆剤が必要だった。
その起爆剤こそが、力石であり、カーロスであり、金竜飛であり、ホセ・メンドーサだった。
最終的に彼は、勝ちへの執念より、「完全燃焼」を選んだ。
「完全燃焼」するために、どうしても必要なものがある。
それは集中力である。
人間の持つ集中力というのは、どんな不可能でも可能にできるのである。
それは、数学が苦手だったぼくが、九大生でも解けんと言われた問題を解いたこと、また初めて卓球をした時、卓球部の人間に勝ったことで経験している。
とにかく、あの時は我ながら凄い集中力が出ていたと思う。
何か普通と違うのである。
眉間から、それまでに味わったこともない不思議な気が出て、体がフワフワしていたのを覚えている。
おそらく、ジョーで言う「完全燃焼」というのも、こんな感じではないだろうか。
そういう状態の時、人は不可能を可能に出来る。
ジョーという人は、それを人為ではなく、本能で実現した人である。

ぼくは今、集中力という観点から「あしたのジョー」を見ている。
そういう目で人生を見るのも、また楽しいものである。
信長も、武蔵も、きっと集中力の優れた人だったのだろう。
では、その集中力を高める方法はあるのだろうか?
答は「イエス」である。
ではどうやって、集中力を高めるのか?
座禅を組むのがいいのか?
念仏を唱えるのがいいのか?
滝に打たれるのがいいのか?
断食すべきなのか?
たしかにそういう方法もあるだろう。
しかし、そんな悠長なことをしていたら、とっさの時に何も出来ない。
すべては王陽明の言う「事上磨錬」
つまり、実践で鍛えていくのだ。
そして、その時の心構えこそが、「えぐりこむように、打つべし」である。


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