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2002年08月21日(水) 武蔵の画

中学の頃、国語の先生から、こんな話を聞いたことがある。

「先生が学生の頃、美術の授業で先生から一枚の画を見せられた。
その画は水墨画で、枯れ木に鳥がとまっている画だった。
美術の先生は、『この画を見てどう思うか?』と我々に尋ねた。
我々が各自意見を言った後に、その先生が『私はこの画が恐ろしい』と言った。
『この画は、あの宮本武蔵が描いたものだ。あれだけ人を斬った人である。だから私には恐ろしく感じる』
その画は、宮本武蔵の『枯木鳴鵙図』という有名な画だった」

国語の先生は、感動的にその話をしたのだが、ぼくはこの話を聞いた時、ぼくの中で何かすっきりしないものが残った。
しかし、その時は、それが何であるかはわからなかった。

それがわかったのは、十年以上たってからのことだ。
それは、「いかにそれが凄い作品であっても、たかが画を見たくらいで、そんなことがわかるはずはない」、ということだった。
それがわかるのは、よほどの目利きか、超能力者や霊能者だけである。
その先生が、そういうたいしたお方だとは聞いてない。
では、どういう理由から、その教師はそんなことを言ったのだろう。
それは、その美術の先生の頭の中に、すでに宮本武蔵像が出来上がっていて、それを作品に当てはめた、ということである。
その作品を見て、宮本武蔵を連想したのならともかく、最初から「宮本武蔵の画」と知って見たのだから、容易に彼の持つ宮本武蔵像に走っていく。
「宮本武蔵=怖い」、笑止である。
「東大=偉い」と同じ発想ではないか。
おそらくその美術の教論は、「私は、それほど画を見る力を持っているのだ」と言いたかったに違いない。

仮に、本当に彼がその作品を見て「怖い」と思ったとしよう。
となれば、この作品は人を斬った後、すぐに描かれたものでないとおかしい。
武蔵とて、いつも仏頂面をしていたわけではなかろう。
時には軽口も叩いただろう。
人の情にも触れただろう。
そういう心境で、「怖い」と思わせるものが描けるだろうか。
人を斬った時の、鬼の心境にある時でないと、見る人に「怖い」と思わせる画などは描けないはずである。

この作品は武蔵の晩年の作品と言われる。
その時期に、武蔵は人を斬ってはいない。
では、若い頃からずっと人斬りの精神状態で居続けたのだろうか。
そんなこと出来るはずがない。
晩年といえば、あの「五輪の書」を書いていた時期である。
自ら「澄んだ気持ちでこの書を書いている」と言っているのに、どこに人斬りの精神状態が立ち入ることが出来るだろう。
「人を斬った感動を、晩年画にしてやる」と思っていたにしろ、いつまでもその感動が続くはずがない。
ましてや、年寄りである。

偉そうに口を開いた美術の教師は、その眼力のなさ、発想の凡庸さを、学生たちに公表したのだ。
実に恥ずかしい話である。


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