| 2002年05月15日(水) |
人生無駄なことは一つもない |
こういう日記を書き出してから、ぼくは一つ確信したことがある。 それは、「人生無駄なことは一つもない」ということである。 言葉は何度も聞いたことがある。 しかし、それは頭の中だけの理解でしかなかった。 実際、無駄だなあと思うような経験は、何度もしている。
昨日書いた『沖縄』でいえば、パブでの経験はさすがに印象深く、後々いろいろな意味で役に立っていることであるが、ストリップの件は実に無駄なことである。 このことに関しては、昨日これを書くまで、すっかり忘れていた。 そう、ぼくにとっては、どうでもいいことだったのである。 しかも、この経験が、ぼくの後の人生で何か役に立っているのかといえば、何も役に立っていないと答えるしかないだろう。 それほど、小さなことである。 しかし、ただ一つ、知識として得たものはある。 昨日書かなかったが、例の「まな板ショー」で、黒人が飛び入りで参加した。 おそらく、米兵だろう。 ステージに上がった黒人兵は、何の抵抗もなく下半身をあらわにした。 それを見て、ぼくはどういう知識を得たか? それは、黒人にもいろいろある、ということだった。
例えば、『ミエコ』にしてもそうである。 別にミエコのパンツのゴムが切れようと、ぼくの人生には何の意味も持たないことだ。 このことも、これを書くまで忘れていたことで、その証拠にそれがいつのことだったのかというのは、完全に忘れてしまっている。 また、これは後に書くだろうが、ミエコはモリタ君をライバル視していた。 そういうことも、当事者にしては大きな意味を持つのだろうが、ぼくには一切関係のないことである。
無駄といえば、今お茶を飲んでいることだって、タバコをふかしていることだって、昨日変な夢を見たことだって、すべて無駄なことである。
では、ぼくはそんな無駄の中に、どういう無駄じゃないことを見つけたのだろうか? それは、そういう無駄が、すべて日記のネタになるということである。 これを気づいた意味は大きい。 こういう見方をすれば、無駄なことは一つもなくなる。 毎日を楽しんで暮らすことが出来る。 すべての事柄を、『笑い』として捉えることが出来る。 そのネタ作りのために、あらゆることに一生懸命になれる。 どんな小さなことでも見落とさない、観察眼を養うことが出来る。 もっと面白い人生を送ることが出来る。
仏教で言うところの、『生老病死の苦』、これらは決して『苦』ではない。 そう、すべてネタなのである。 『生きる』ことと向かい合うことによって、ネタは生まれる。 『老い』を『笑い』と受け止めることによって、ネタは広がる。 『病』という得がたい経験は、すべてネタになる。 『死』は一生に一度しかない、貴重なネタ元である。 これらを無駄にしてはならない。 これらを客観的に見ることによって、人生に余裕が出来るだろう。 またそのことが、ネタにつながる。 『生老病死』に悩む暇があったら、さっさとネタにしてしまおう。
まあ、そういうことで、無駄のない人生を発見したことは、ぼくの人生を確実に意義あるものにしてくれるだろう。
|