ぼくは昭和32年11月に福岡県八幡市(現北九州市八幡西区)折尾で生を受けた。 折尾という街は、かつては石炭産業で栄えた所である。 鹿児島本線と筑豊本線が交差する交通の要所で、2年前までは西鉄北九州線の起点でもあった。 また多くの高校や大学がここに集まっており、石炭産業の廃れた今は、学生の街として栄えている。 ぼくは、その折尾にある田中産婦人科というところで生まれた。 今でもこの病院はあるが、この田中産婦人科という名を聞くと、何かホッとするような思いがする。 ちなみに、この産婦人科は、あの雅子妃の不妊治療をしたと噂される、有名な『セントマザー病院』の院長の実家である。
生まれた頃に住んでいたのは、遠賀町という父の母方の実家の近くであった。 しかし、その頃の思い出はまったくない。 そこには、あまり長くは住まなかったのである。
ぼくが生まれた翌年に、『しろげ一家』は黒崎に移り住んだ。 街のど真ん中に家を借りた。 その家は、今の飲み屋街辺りだったということである。 引っ越した理由は知らない。 ただ、父が八幡製鉄所に勤めていたので、「職場に近いので、通勤に便利」というのが理由だったのかもしれない。 なぜなら、黒崎からだと八幡製鉄所までは、当時走っていたチンチン電車で10分とかからないのだから。 もう一つ考えられるのが、その家が映画館の隣にあったということである。 テレビのなかった当時は、映画が情報源であった。 父は案外、映画っ子だったのかもしれない。 黒崎に住んでいたのは1年ちょとだった。 したがって、2歳のぼくにはその頃の思い出もない。 ただ、今でもそのへんを歩くと、なぜか懐かしい思いがするものである。
2歳の頃、今住んでいる場所に移った。 ここは、黒崎と折尾のちょうど中間に位置する。 もちろん、移り住んでからしばらくの記憶はない。 覚えているのは、家の近くに馬が多くいたことだ。 かと言って、近くに田んぼや畑があったわけではない。 じゃあ、なぜ馬がいたかというと、以前ここに競馬場があったからである。 もちろん、小倉のような中央競馬ではなく、地方競馬だったようだが。 ぼくが保育園に通う頃には、すでにこの競馬場は潰れていたので、馬がいたというのはそれ以前の記憶だろう。 しかし、初めてにおう馬の臭いは強烈だった。 ぼくが競馬をしないのは、きっとこの臭いからきているのだろう。
この競馬場のように、越してきた頃はあったのだが、ぼくが幼い頃に潰れてしまったものに、映画館がある。 うちから歩いて1,2分の場所に映画館があった。 黒崎にあった、東映・東宝・日活・松竹といったメジャーな映画館ではなく、その当時ならどこにでもある、テレビ代わりの小さな映画館だった。 そこでは、古い時代劇やB級の洋画を上映していたような覚えがある。 立地が悪く、雨が降るといつも水浸しになった。 いすは破れ、時折ネズミが走り回るような、最悪の映画館だった。 この記憶が、後のぼくの映画館嫌いを決定付けたのだと思う。 ぼくは、好んで映画に行く人間ではない。 今までは、招待券をもらった時ぐらいしか行ったことがない。 それもこれも、映画館が嫌いだからだ。 ビデオが普及してからは、招待券をもらっても行かないようになった。
区画整理とともに消えていったものもある。 銭湯である。 ぼくの家には風呂があったので、めったに銭湯を利用することはなかった。銭湯に行ったのは、風呂が壊れた時と、親戚のうちに泊まりに行った時くらいなものである。 そのせいか、銭湯にはいつも憧れを持っていた。 東京にいた時に一番うれしかったのは、銭湯通いが出来たことである。 時間に制約がなければ、ずっと入っていたかった。 銭湯で特に好きなのが、風呂場から脱衣場に出たときのにおいである。 あれは何のにおいなんだろうか? 足拭きの、あのタワシのようなもののにおいなんだろうか? なんと形容していいのかわからない、独特なにおいである。 ぼくは温泉やスーパー銭湯に行くのが好きだが、あのにおいがないことにいつも不満を感じている。 温泉はともかく、スーパー銭湯に言いたいことがある。 いくら温泉もどきとはいえ、温泉のあの屁みたいなにおいまで真似なくてもいいじゃないか。 それよりも、銭湯独自の、あのタワシのようなにおいを出してもらいたいものである。
それにしても、「三つ子の魂百まで」とはよく言ったものである。 ここまで羅列したどうでもいいようなことが、すべて幼児期の体験や記憶から来ているのである。 こういうことを探っていくと、「どうして日記を書くのが遅いのか?」という疑問も解けるかもしれない。 現在、時刻は午前9時14分である。
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