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2002年03月28日(木) 原体験

ぼくは昭和32年11月に福岡県八幡市(現北九州市八幡西区)折尾で生を受けた。
折尾という街は、かつては石炭産業で栄えた所である。
鹿児島本線と筑豊本線が交差する交通の要所で、2年前までは西鉄北九州線の起点でもあった。
また多くの高校や大学がここに集まっており、石炭産業の廃れた今は、学生の街として栄えている。
ぼくは、その折尾にある田中産婦人科というところで生まれた。
今でもこの病院はあるが、この田中産婦人科という名を聞くと、何かホッとするような思いがする。
ちなみに、この産婦人科は、あの雅子妃の不妊治療をしたと噂される、有名な『セントマザー病院』の院長の実家である。

生まれた頃に住んでいたのは、遠賀町という父の母方の実家の近くであった。
しかし、その頃の思い出はまったくない。
そこには、あまり長くは住まなかったのである。

ぼくが生まれた翌年に、『しろげ一家』は黒崎に移り住んだ。
街のど真ん中に家を借りた。
その家は、今の飲み屋街辺りだったということである。
引っ越した理由は知らない。
ただ、父が八幡製鉄所に勤めていたので、「職場に近いので、通勤に便利」というのが理由だったのかもしれない。
なぜなら、黒崎からだと八幡製鉄所までは、当時走っていたチンチン電車で10分とかからないのだから。
もう一つ考えられるのが、その家が映画館の隣にあったということである。
テレビのなかった当時は、映画が情報源であった。
父は案外、映画っ子だったのかもしれない。
黒崎に住んでいたのは1年ちょとだった。
したがって、2歳のぼくにはその頃の思い出もない。
ただ、今でもそのへんを歩くと、なぜか懐かしい思いがするものである。

2歳の頃、今住んでいる場所に移った。
ここは、黒崎と折尾のちょうど中間に位置する。
もちろん、移り住んでからしばらくの記憶はない。
覚えているのは、家の近くに馬が多くいたことだ。
かと言って、近くに田んぼや畑があったわけではない。
じゃあ、なぜ馬がいたかというと、以前ここに競馬場があったからである。
もちろん、小倉のような中央競馬ではなく、地方競馬だったようだが。
ぼくが保育園に通う頃には、すでにこの競馬場は潰れていたので、馬がいたというのはそれ以前の記憶だろう。
しかし、初めてにおう馬の臭いは強烈だった。
ぼくが競馬をしないのは、きっとこの臭いからきているのだろう。

この競馬場のように、越してきた頃はあったのだが、ぼくが幼い頃に潰れてしまったものに、映画館がある。
うちから歩いて1,2分の場所に映画館があった。
黒崎にあった、東映・東宝・日活・松竹といったメジャーな映画館ではなく、その当時ならどこにでもある、テレビ代わりの小さな映画館だった。
そこでは、古い時代劇やB級の洋画を上映していたような覚えがある。
立地が悪く、雨が降るといつも水浸しになった。
いすは破れ、時折ネズミが走り回るような、最悪の映画館だった。
この記憶が、後のぼくの映画館嫌いを決定付けたのだと思う。
ぼくは、好んで映画に行く人間ではない。
今までは、招待券をもらった時ぐらいしか行ったことがない。
それもこれも、映画館が嫌いだからだ。
ビデオが普及してからは、招待券をもらっても行かないようになった。

区画整理とともに消えていったものもある。
銭湯である。
ぼくの家には風呂があったので、めったに銭湯を利用することはなかった。銭湯に行ったのは、風呂が壊れた時と、親戚のうちに泊まりに行った時くらいなものである。
そのせいか、銭湯にはいつも憧れを持っていた。
東京にいた時に一番うれしかったのは、銭湯通いが出来たことである。
時間に制約がなければ、ずっと入っていたかった。
銭湯で特に好きなのが、風呂場から脱衣場に出たときのにおいである。
あれは何のにおいなんだろうか?
足拭きの、あのタワシのようなもののにおいなんだろうか?
なんと形容していいのかわからない、独特なにおいである。
ぼくは温泉やスーパー銭湯に行くのが好きだが、あのにおいがないことにいつも不満を感じている。
温泉はともかく、スーパー銭湯に言いたいことがある。
いくら温泉もどきとはいえ、温泉のあの屁みたいなにおいまで真似なくてもいいじゃないか。
それよりも、銭湯独自の、あのタワシのようなにおいを出してもらいたいものである。

それにしても、「三つ子の魂百まで」とはよく言ったものである。
ここまで羅列したどうでもいいようなことが、すべて幼児期の体験や記憶から来ているのである。
こういうことを探っていくと、「どうして日記を書くのが遅いのか?」という疑問も解けるかもしれない。
現在、時刻は午前9時14分である。


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