ぼくが『道の達人』と呼んでいる人たちがいる。 例えば歩道で、例えば店の通路で、その人たちは活躍している。 何の達人か? 彼らは、後ろを歩いている人から抜かされない達人なのだ。 別に早歩きをしているわけではない。 どちらといえば、ゆっくりと歩いている。 達人を抜くスペースは十分にある。 だけど、後ろの人は抜けないでいる。
達人は、後ろの人が急いでいる時に、その技を披露する。 こちらが右に行こうと思った時は微妙に右に寄り、左に行こうと思った時は微妙に左に寄る。 曲がるかと思ったら立ち止まり、立ち止まるかと思えば歩き出す。 その動きは変幻自在で、実に絶妙なタイミングで後続を翻弄する。 最終的にはこちらが大回りして抜くことになるのだが、その間のこちらの精神的疲労は、かなり大きなものがある。 つまり、試合に勝つことは勝ったが、勝負に負けたと言うことである。
さて、一方の達人のほうは、そういうことをまったく意識してないのか、抜かれても平然としている。 第一、こちらが達人の後ろを歩いていることさえ気づいてないようである。 しかし騙されてはいけない。 彼らの研ぎ澄まされた感覚は、こちらの動きを完全に把握している。 しかも、心の中まで見透かしているのである。
ところで、『道の達人』とは、どんな人たちなんだろうか? 仙人のような人たちなんだろうか? それとも修行者のような人たちなんだろうか? はたまた武術家のような人たちなんだろうか? 違うのだ。 『道の達人』は普通の人なのだ。 ちょっと見ただけではわからない。 普通のじいさん・ばあさんであり、普通の主婦であり、普通の子供であるのだ。 「え、子供までも?」と思うかもしれないが、人間は元々この能力を持っているのである。 しかし、成長するにつれて、この能力は失われていく。
では、普通のじいさん・ばあさんや普通の主婦たちは、どこでこの修行を積んだのであろうか? また、その修行法とはどんなものだったのであろうか? まず、この修行はどこででもできるものである。 特に人通りの多い商店街やデパートやスーパーの中など、なるべく人の多く集まるところがよい。 バーゲンなどで鍛えていくのである。 次に修行法だが、特別な修行法があるのではない。 自我というものを助長すればよいのである。 つまり、我ままであれと言うことだ。 世間に対して、唯我独尊を貫くことである。
それにしても、『道の達人』は言い過ぎたなあ。 そんな立派なものではない。 『歩道の達人』とか『通路の達人』にしておこう。 しかし、どうでもいいけど、人の多く集まる場所ではさっさと歩いてくれよ。
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