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2002年02月26日(火) 菅原道真公 御神忌 一千百年大祭

2月25日、旧暦の日にちなのか、新暦で換算した日にちなのかは知らないが、この日は菅原道真公が亡くなった日ということである。
太宰府天満宮では、この日を菅公が「亡くなった日」と言わずに、「天神さまになった日」としている。
菅公は903年に亡くなっているから、今年でちょうど1100年経つ。
ということで、天満宮では「菅原道真公 御神忌 一千百年大祭」というのを催している。
こちらのテレビやラジオでは、去年から頻繁にこの祭のCMが流れている。

菅公といえば「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ」という歌が有名である。
しかし、それ以上に有名なのが「白紙に戻そう遣唐使」である。
いかに歴史嫌いの人でも、一度は目にしたことがある言葉だろう。
これは別に菅公が言った言葉ではない。
1000年以上後のアホな学生が、年表を覚えるために作った語呂合わせである。
もちろん、遣唐使の廃止は菅公が建議したことなので、大いに関係のあることではある。
その頃は要職にあり羽振りのよかった菅公も、それから7年後、藤原氏の陰謀で大宰府への左遷を憂き目に会ってしまう。
その大宰府では、ほとんどあばら家状態の官舎をあてがわれたということである。
その後ヒッキーになった菅公は、それから2年後の昨日、「都に戻りたい」という無念を残して死んでいく。
菅公の遺体を乗せた牛車が止まって動かなくなった所が、現在の太宰府天満宮の建っている場所だという。

福岡県人のぼくとしては実に面白くない話である。
だいたい「大宰府行き=左遷」という図式は何か!
右大臣より下の位になったから左遷なのであって、大宰府に行くことが左遷だということにはならないはずだ。
こんな歴史を残すから、後世九州は最果ての地というイメージで捉えられるようになるんだ。
以前ぼくは、「横須賀のほうでは、九州に行ったら熊が出ると言ってるよ」と横須賀のおばさんが話していたのを聞いたことがある。
九州のどこに熊が出るのかは知らないが、ぼくの住んでいる北九州は、イタチは出るけど熊は出ない。
隣の宗像市でもイノシシがやっとである。
熊にお目にかかろうと思えば、動物園か阿蘇の熊牧場に行くしか方法はないだろう。
さらに野生の熊を見ようと思ったら、よほどの山奥に行かないと見れないはずである。
どの地方に住んでいようと、これは同じことではないのだろうか。
当時の筑紫(福岡)というのは、大陸との貿易で栄え、いわば流行の最先端をいっていた場所である。
仕事だけで捉えると左遷かもしれないが、そこでは都にはない新しい文化があったはずだ。
菅公は都で得た知識だけを善しとしたのだろうか?
学者としての自分を捨ててまで、出世に執着したのだろうか?

「遠(とほ)の朝廷(みかど)」という言葉がある。
その当時の人は大宰府のことをそう呼んでいたらしい。
遠くにある朝廷(今で言えば福岡本店などというのと同意か)と見なしてそう呼んでいたというのだが、これには異説がある。
「遠」を「遠い場所」という意味で使っていたのではなく、「遠い時代」という意味で使っていたというのだ。
つまり「遠い時代に朝廷のあった所」という意味である。
もしそうであれば、菅公は古都に行って嘆いたことになる。
現代風に言えば、京都に転勤して嘆くようなものである。
まあ、望郷の念はわかるにしろ、菅公はそんなに大宰府が嫌いだったのかなあ。
福岡県は菅公にちなんで、というより気を遣って梅の花を県花にしているのに。
それに県内には菅公ゆかりの地というのが多くある。
北九州市戸畑区に菅原神社という神社がある。
ここは京から大宰府へ赴任する途中に、菅公が足を洗った場所だという。
まるで、「好きな芸能人と握手した手を洗わない」、というファン心理のようなものじゃないか。
県民はここまでして菅公を慕っていたのに、菅公の目はいつも京を見ていたわけだ。
何か寂しい気がするものである。

ああ、そうか!
その当時にはまだ「とんこつラーメン」がなかった。
それが菅公は面白くなかったんだ。
さらに、「中洲」がなかったから腐ったんだ。
もし菅公が1100年後に生きていたとしたら、きっと進んで福岡に行きたがったに違いない。
そう思うことにしよう。


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