小学生の頃の怪我は、やはり圧倒的に「こけた」というのが多かった。 歩いてこける、走ってこける、自転車でこける、イスに座っていてもこける。 ぼくはさほど運動神経や平衡感覚が悪いほうではないのだが、それにしてもよく「こけた」。 こけた理由は身体的な能力にあったのではなく、性格上の問題にあった。 小学校3年の頃から、通信簿の連絡欄に「おっちょこちょい」という言葉が登場しだした。 「しんた君は人を笑わせることが好きで、クラスでも人気があるが、とにかくおっちょこちょいである」といったような文章が、小学校3年の1学期の通信簿にしんたの歴史上初めて書いてあった。 それ以来小学校を卒業するまで、この「おっちょこちょい」と「おしゃべり」がぼくの通信簿を賑わすことになる。
さて、こけて一番被害にあった場所が「ひざ」である。 ぼくのひざはいつも赤チンだらけだった。 右ひざが治ったと思ったら、今度は左ひざをすりむいてくる。 年中そんな繰り返しだった。 そんな生傷に絶えない中にも、楽しみはあった。 オキシドールである。 オキシドールを塗ると、確かにしみて痛いが、あのブクブクと立つ泡を見るのが好きで好きでたまらなかった。 だって、あの泡でばい菌が死んでいくんだから、こんなに楽しいことはない。 痛みを堪えながら、「死ね、死ねー」といつも言っていた。 傷口がかさぶたで塞がり治りかけている時に、痒くなることがある。 我慢できなくなって掻きむしり、かさぶたが破れて、再び血を見た時は悔しかった。風呂に入る時に、また痛みを我慢しなくてはならない。怪我をして一番辛いのは風呂に入る時だから。 お湯の痛みと石鹸の痛み、嫌でしたねえ。
こけて大怪我をしたこともある。 昭和56年のこと。 当時はバスで黒崎まで行き、そこから国鉄を利用して勤務地小倉まで通っていた。 今は橋上駅になり、エスカレーターやエレベーターで駅のデッキまで行けるようになっているJR黒崎駅だが、国鉄時代は入口が1階にあり、バス停から駅の入口に行くためには、まず当時あった西鉄北九州線の線路を渡るために、歩道橋を利用しなければならなかった。 歩道橋を上って下りて、さらに20メートルほど行って駅の入口に着く。 そこから改札を抜け、また階段を上り下りして、ようやくホームに出たのだ。 つまり階段を二度上り下りしなければならなかった。 9月のある日、ぼくはいつものようにバスに乗って黒崎に向かった。 相変わらずの渋滞である。 バスが黒崎に着いたのは、電車発車の2分前だった。 そこからダッシュである。 歩道橋の階段を駆け上がり、下りようとした時に足がわらになってしまった。 よろけながら下りて行って、歩道橋の手すりに頭をぶっつけた。 「痛てぇ」と思いながらも、ぼくは駅に向かった。 改札を抜け、駅の階段を駆け上がった時、電車は発車してしまった。 「あーあ、遅刻やん。どうしよう?」と思った時、首筋が冷たくなった。 「どうしたんだろう?」と触ってみると、なんと血がべったりと手についているではないか! 「頭ぶっつけた時に切ったか!? でも頭の傷は大げさやけ、すぐに治るやろう」と、ぼくは次の電車を待った。 何分か後に電車は来た。 席は充分に開いていたが、ぼくは座らずに立っていた。 まだ血がどんどん出ているので、もし人に見つかったら救急車で病院に運ばれてしまうと思ったからだ。 そんな状況でも「これで遅刻の言い訳ができる」と喜んでいる自分がいた。 さらに「これで笑いが取れるなあ」などと馬鹿なことを考えていた。
・・・つづく
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