| 2001年10月17日(水) |
ぼくは門徒さんではありません |
この間、浄土真宗などと書いたので、「お前は門徒さんか?」と言われた。 訂正しておきます。 うちの宗旨が浄土真宗なので、本願寺のほうで勝手に門徒の数の中に入れているかもしれないが、ぼくは門徒さんではありません。
30代の頃、仏教の書物を読み漁ったことがある。 20代の頃に中国思想に耽っていたが、30代の始めに中国思想ではどうにも解決できないものにぶち当たってしまい、仏教書に走ったのである。 かなり読みましたね。 特に好きだったのが、禅宗関係の本だった。 読後の爽快感は他の宗派の差ではなかった。 その中でも一番のお気に入りが、「盤珪禅師語録」だった。 とにかく、江戸時代の書物なのに、しゃべり言葉で書かれているので、現代語訳なしで読むことが出来る。 内容も、奥は深いかもしれないが、平易でわかりやすい。 「お手前は・・・」「・・・でござるわいの」とか「不生でごじゃれ」などという、盤珪独特の言い回しが親しみを持てる。 いろんな人とのやりとりが面白い。
「私は生まれつき短気で困っております」と言われ、「お手前は面白い物を持って生まれたのう。直してしんぜよう。ここに短気を出してみなさい」 「今この場では出せませぬ。ふとした時に出るのです」 「じゃあ、生まれつきじゃないじゃないか。お前の短気は、育つ過程において身につけた気癖じゃないか。生まれつきなどと言って、親のせいにするな」とたしなめた。
「ある宗祖は、川の対岸に紙を持って立たせ、空中に文字を書いたらその文字が紙に浮き出てきたと言われるが、あなたはそういうことが出来るか?」と訊かれた。盤珪は「そんなことは奇術師がやることじゃわいの。法の場でする話じゃござらん」と切って捨てている。
新しい木彫りの仏像を見た僧から「あれは新仏であるか、古仏であるか?」と問われ、盤珪が「お手前はなんと見やったな?」と訊くと、「新仏と見とってござる」と答えた。盤珪は「新仏なら新仏でそれで終わったこと」と言い「お手前は、仏法を特別なものと見ているから、そんな役にも立たない愚かなことを訊くのだ」と。
記憶で書いているので原文とは違うが、こういう話が、語録としてまとめられている。まだまだ面白い話もある。 この本を読む人は誰でも、「これが仏教か?」と疑うだろう。(実際、盤珪は「バテレンか?」と疑われ、迫害を受けたこともある) 仏教を学問と思っている人には物足りないだろう。 しかし、これが仏法なのだ。 盤珪の仏法は、難しい言葉はいらないと言った。 平易な言葉の中に仏法はあると言った。 難しい言葉を使うものを決して認めなかった。 難しく考えることを決して許さなかった。
ぼくはこの本を読んで「生きるということは、理屈ではない」と悟った。 そして、ぼくは「大人ぶるのはやめて、少年でいることにしよう」と心に決めた。 その後、ぼくは仏教書を読まなくなった。
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