「かわいそうな中国の人たち、かわいそうな韓国の人たち。私たちが助けてあげる。そう、私たちは良識のあるいい日本人なのよ」 教科書問題から靖国参拝まで、一連の騒ぎの中にこういう考え方を持っている人が多く見受けられた。 いかにも他人の痛みがわかっているように振る舞う人たち。 だけど、これが差別だということが、まったくわかってない。 このことについてどう言い訳しても、相手を弱者としてみているのだから、差別だと言われても仕方がないだろう。 決して友人と対等につきあう態度ではない。 大人が子供に対する時の態度だ。 言い換えれば、相手を対等な国と認めてない態度だ。 身体障害者は、憐れみをもって接してくる人を極端に嫌うという。 彼らは普通に接してほしいのだ。 だけど身体障害者を可哀想な人という前提で見てしまう人は、普通に接することができない。 心無い親切、余計なお世話、満面の作り笑顔、やることなすことが嫌味になってしまう。 こういう人は、本当の意味での人の痛みがわかっていない。 実はこの「身体障害者=可哀想な人」という気持ちこそが差別心なのだ。 おそらくそういう人たちは、こんな簡単なこともわからないだろう。 今回の中韓国人擁護派の人たちはどう見ても、それと同じ気持ちで一連の行動をやっているとしか思えない。 「中韓国の人=可哀想な人」という差別心。 「中韓国人の味方=良識あるいい人」と思う浅はかさ。 日本と中韓国がまともな関係になった時、おそらく中韓国の人はそういう人たちを相手にしないだろう。
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