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きゅっ。
by きゅっ。
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■北京オリンピックの私的費用と社会的費用の乖離
今朝はスッキリと目覚め微熱もなかった。白血球はまだ上がってこないけど、なんとなく体調が良くなっていく気がする。ジンマシンは続いているけどね。
前回は、食糧管理制度をミクロ経済学のシンプルなモデルを使って説明してみたんだけど、ちょっと舌足らずなところがあったので補足しておく。
社会的余剰=消費者余剰+生産者余剰-政府支出っていうのは分かってもらえたと思う。
でも、鋭いあなたなら気づいているはず。
もしも、生産者余剰の増加分が消費者余剰の減少分を上回れば、政府支出を引く前の総余剰は、完全競争市場よりもでかくなるんじゃないのか?!ってことを。
その通りなんだよ。生産者は、消費者余剰の減少分よりも大きな生産者余剰の増加分を得ることができて、とっても美味しいんだ。なんといっても生産量全部を生産者価格で買い取ってもらえることを保証されているんだから。まさに、生産者保護に適した政策なんだ。
さらに、前回説明したように、政府支出分は、税収が財源だから、消費者と生産者で均等に負担する。消費者は消費者余剰を減らされたばかりか、生産者余剰の増加分の負担を強いられているわけだ。一見、消費者かわいそうー!という結論になりがちなモデルになるのだ。
…ではあるが、『国内農家の保護、食糧自給の確保といった食糧安全保障対策的な意味合いから、日本の置かれている国際的立場を考えれば』、それでもやらないよりやってきて良かったんじゃないの?って俺は思っているけどね。今は、自由米になって大分ゆるくなったけど、食品貿易、農業貿易が以前より盛んな現在、農業政策はより重要になったと思える。国民みんなが農家だって国じゃないんだからさ、国内農業を保護しようとしたらコストがかかるのは当たり前じゃん。わけのわかんない消費者代表のおばちゃんみたいな都市住民が増殖していったら、日本は滅ぶね、確実に。
だから、ご飯を食べる前には、いただきます、食べ終わったら、ごちそうさま、と声を出して言い続けなきゃいけないと思っている。
さて、
市場に委ねてしまうと却って社会的余剰を減少してしまうような場合というのも実はいろいろある。たとえば、ある企業が生産活動の副産物である廃棄物を、そばに流れる川にたれ流しにしていたら、困るでしょう?でも、規制も何もなければ、この企業にとっては、廃棄物の処理は川に流すだけで済む。費用はとても少なくて済む。このときの費用のことをこの企業にとっての私的費用というんだ。
だけど、この川には魚はいなくなるだろうし、いても汚染された魚になっちまうし、飲料水としても使えなくなるだろう。どこかで代わりの水を見つけなきゃなくなる。あるいは、河川浄化のために多くの労力が必要となる。こんな犠牲が一方で出てくる。この犠牲になってしまった費用は社会的費用というんだ。
企業が生産費用の中に、私的費用だけしか負担しないのか、社会的費用も含めるのかという問題は、昔の日本企業の公害訴訟の例、今の中国の状況から想像がつくと思う。
廃棄物を川へたれ流しにすることに対して何の規制もなければ、企業は私的費用しか負担しないのがフツーでしょ?そうすると、この企業の私的限界費用曲線に沿って生産が行われるから、需要曲線との交点は社会的費用を考慮した社会的限界費用曲線に沿って生産が行われた場合よりもたくさん生産してしまうことになってしまうんだ。
これは、イクナイんだな。企業、ボロ儲けじゃん。完全競争市場は大失敗じゃん。
この企業は川を利用することに対してお金払ってないんだもん。川の使用料を取引する市場がないってことが問題なわけだ。
ここで、ウザイかもしれないけど、政府の役割が出てくるんだね。つまり、政府の役割の一つには、こういった私的費用と社会的費用の乖離を調整をするっていうことがあるんだ。こういう仕事は民間主体ではできないからね。費用は税収でしか賄えない(ま、最近はやりのNPOやボランティアのようなシステムは否定しないけど、社会的費用を負担しようという賛同者は通常多くないからね。)。不祥事続きで国民に叩かれっぱなしの公務員だけど、本来、とても重要な仕事を担っているはずなんだな。
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08月07日(木)
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