ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■6484、つれづれに哲学 〜現在という絶対地点
〜『絶望を生きる哲学』池田晶子著
* 幸福とは、ここに尽きている!
<「不幸」とは、じつはそれらの事態そのものでなく、それらを不幸と「思う」
ことにある。死ぬことが不幸なのではなく、死とは何かが知られてないことが
不幸なのである。 現在しか生きることができないと知ったら、現在において、
為すべきことを為し、現在において、愛するだけ愛する。
われわれの「幸福」は、十分にすぎるほど、ここに尽きていると私は思う。
〜「考える日々」>
―
▼ 池田晶子が亡くなってはや10年以上経過する。 彼女が宣う、人生は
「現在を生きる!」の一言に尽きる!と。とはいえ、過去も、存在するだろう
未来も、「現在」が(を)孕んでいる。 さほど多く残されてない時間の中で、
一日一日、一刻一刻を生ききるしかない。現在といえば「いま、ここ、わたし」。
永遠に向かい垂直に立つ。
――
*なぜ「ない」ものが怖いのか 〜『14歳の哲学』より
< 生死の不思議とは、実は「ある」と「ない」の不思議なんだ。
人は、 「死」という言い方で、「無」ということを言いたいんだ。
でも、これは本当におかしなことなんだ。「無」とは「ない」ということだね。
無は、ないから、無なんだね。それなら、死は「ある」のだろうか。
「ない」が、「ある」のだろうか。死は、どこに、あるのだろうか。
君は、たぶん、死ぬのを怖いと思っているだろう。死んだら何にもなくなる
じゃないかって、でも、何にもなくなることは「ない」はずだ。なぜって、
「ない」ことは「ない」からね。じゃあ、なぜ「ない」ものが怖いのだろう。
ないものを怖がって生きているなんて、何か変じゃないか。>
―
▼ 池田晶子の書籍を多く読んできたが、上記のエピクロスを噛み砕いた、
個所が私にとって、ベストの部分である。父が亡くなる前に、死の恐怖に
慄いていた時に、エピクロスの一節、
【われわれが存するとき死は存せず、死が存するときわれわれは存しない】
を説き、一人称の死は、妄想とと知った時の父の安堵した顔を忘れられない。
たった、これだけのことを知っているかどうかで、死の恐怖が10分の1、100分
に激減するのだから。
〈所詮は10の500乗の多宇宙の中の、この宇宙の生臭い塵でしかない『自分』…〉
でしょう。 なら、生臭い人生、何おか言わん! となるとエピクロスの快楽
主義に毒され過ぎた私の脳レベルが露呈する。
最後は、「達磨さん、ちょいとコチ向け」ですか!
――――
2011/01/31
3233, 死は‘別れ’のとき ー2
* あなたと出会って良かった !
昨日は高校の同級生の葬儀。 150人位の参列者で、同級生は15〜6人位。
通夜は11名で、通夜と重なっている人をならすと22〜3名。それぞれが
背負って生きてきた人生の全体が 垣間見えるのが葬式である。高校の同級生の
葬式といえば、次は誰かと互いに詮索し押し付けあうのが恒例。ところで葬式で、
火葬場の最後の別れの場面が人生模様の圧縮が表出する。実は、この場面の
立会いが好きである。悲しみと同時に故人と家族の愛が全体を包むからである。
故人の奥さんの絶叫が涙を誘った。御棺の顔部分の蓋を閉めるとき、奥さんの声
が聞こえてきた。
「あなたの奥さんで良かった! 幸せな人生でした。 ありがとう。ありがとう。
ありがとうございました。ありがとう。ありがとうございました。」と。同時に
家族全員が号泣。そして娘さんが遺体を焼却炉に入れる直前に
「いや、入れないで!」と絶叫。 これまで、数かぞえ切れないほど、その場面に
立ち会ってきたが、これほどの感動的な悲しい場面は初めて。 会場の殆どの人が
涙を流し、立ちすくんでいた。奥さんと家族の感情が自然に堰を切ったように
出たのである。火葬場からの帰りのバスの中でも涙が止まらなかった。
自分の家族に、果たしてこんなことを言ってもらえるだろうか。無いだろう!
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12月14日(金)
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