ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■4775,ぼんやりの時間 ー8
                      「ぼんやりの時間」辰濃 和男 (著) 
    * 「懶」 ー心の余白
「『ものうい生活』の中に自らなる別天地に休んじ、楽しむことを気取ることが懶惰」というらしいが、これが、この年齢で、
少しは分かってきたようである。事業を立上げ、軌道に乗せて暫くの間、何もすることが無い日々の別天地を知っればこそ、
この懶惰の味わいが分る。振返ると、あの退屈の懶惰こそ、お宝だった。その合間の、読書や、秘境ツワーなども、それだ。
《 谷崎潤一郎は、1930年に『懶惰の説』という随筆を書いている。西洋の人々がいかに活動的であり、精力的であるかを
例示し、これに対し東洋の人々がいかにものぐさで、面倒くさかり屋であるかを対照的に書いている。懶惰の代表者は誰か。
物語のなかでの人物ではあるが、物臭太郎(三年寝太郎)の名をあげている。
 さて、瀬惰とはなんだ?.
「『ものうい生活』の中に自らなる別天地のあることを知り、それに安んじ、それをなつかしみ、楽しみ、或る場合には
そう云う境地を見えや気取りにするかの如き傾向の存すること」 瀬惰心という言葉があるとすれば、この谷崎の定義は
その一面を言い当てている。むろん、西洋人にも瀬惰心の人がいるし、東洋人にも活動的な人がいるのはいうまでもないが、
あるていど類型化しないと、論旨がはっきりしない。 瀬惰をよしとする人は、年中あくせくしてきりきり働く人を冷笑し、
ときには俗物扱いにする。朝から晩までせかせかと動き回る人を嗤う傾向がある。
 一方、瀬惰心に批判的な西洋人は、浮世を捨てて山の中に隠遁し、独り瞑想にふけっているような人物を聖人とは思わない。
高潔の士とも思わず「一種のエゴイスト」にすぎないと切り捨てる。浮世を離れて「何もしないでいる」などということは
西洋人にとって「悪徳中の悪徳」なのだ、と谷崎は書く。
 もっとも、谷崎自身は、瀬惰心というものに、一定の共感をもっていたことはたしかだ。
「とにかくこの『物臭さ』、『億劫がり』は東洋人の特色であって、私は仮りにこれを『東洋的瀬惰』と名づける、
 というとき、自分にもまた、その東洋的瀬惰なるものの血が流れているという自覚があっただろう。 》
▼ 事業を目指し、準備15年間、そして立上げ、最後は、津波で流され終わった私の事業人生。 それを全面否定され、
 あざ笑われているような内容である。それも、あと一年で古希になろうとして気づいた底浅い己には、この結果が
 似つかわしいと独り納得させられる。 こういう視点もあると割り切ってはいても、気になることは確かである。 
 心の余白など埋めぬがよい! いや、埋めようがない!
・・・・・・
4408, 隠居大学ーよく遊びよく遊べ −6
2013年04月11日(木)
     第五時限 「うふふ力を磨こう」  ー「隠居大学」天野祐吉、お相手 坪内捻典
   * 俳句はゲーム感覚で楽しむ
 母が50歳の頃、それまでの苦労のため重症のウツ病になり、数年かけ独り立ち上がったが、子供なりに壮絶さを垣間見た。
88歳で老衰で亡くなったが、医師の要請による解剖で心臓の四分の一が壊死していた。第二の人生の40年近くは、趣味の
世界に徹底していた。舞踊、謡い、茶道、写真、短歌、どれもこれも負けず嫌いで、ある領域まで達していた。晩年、母親に、
「一番、極めたのは何?」と訊ねたところ、短歌という。 老年の趣味といえば、短歌と俳句と川柳がある。
  ー 次の箇所は、短歌と俳句の違いを端的に示している ー
≪ 坪内:俳句的人間と短歌的人間って呼んでいるんですよ。ぼくの中では、つぶあんは俳句的人間、こしあんは短歌的人間。
 天野 どういうところが、俳句的、短歌的なんでしょう。
坪内 そうですね、まず、俳句は、自分の言いたいことを言わないんです。これは、つくるときにも意識しておくといいと
 思うんだけど、いちばん言いたいことを言わないのが、俳句がうまくなるコツですよ。よく、「わたしのこの俳句は
 こんなところがこんなにいいんです」と、自分で一生懸命説明する人がいるんだけど、そういう人はあまりうまくならない。

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04月11日(金)
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