ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■4702,漂流者たち
* 漂流者たち ー若者には未来など無い!あるのは現在のみ ー『散文』谷川俊太郎著より
ーこれは全文であるー 【若者を『私』、夢を『思い出』に置き換えると、現在の私(同年代)の心境に似ている?】
《 若者には未来がある、とはいいふるされたことばである。これは若者のことばではなく、感傷的なおとなのことばであろう。
若者には現在がある。むしろ、若者には現在しかない。そのことはだれよりも若者自身がよく知っている。過去をふりかえる
ひまがないのと同じように、若者には未来を考えるゆとりがない。彼らはいまの一瞬々々を、手づかみしようとする。
それはこっけいで、そのくせ悲劇的だ。 若者は、生活しようとはしない、生きようとするのだ。
「仕事?つまんないなあ」
深い吐息のように、ある自動車工場の工員はいった。自分にも、いったい自動車のどの部分を造っているのか、
よくわからないのだそうである。昼休みの、日だまりで、牛乳を飲みながら彼は、ほんとうは、新車のテスト・ドライバーに
なりたいんだと、はにかみながら話した。
「いかすもん、なあ」活宇にすると、こんなにも無力で、使いふるされたことばが、若者の口の上では、この上なく生き生きと
するのである。若者は夢見る。夢に夢中になる。恋の夢、金の夢、正義の夢、純粋の夢。未来に向かう夢ではない。時のない夢、
広漠とした情念の世界にひろがる夢だ。だぷん夢が深ければ深いほど、彼らは現実に目ざめている。きのうもあすも、後らに
とっては観念にすぎない。唯一の現実、それは今日である。いまである。土曜日の晩のダンスホールの芋を洗うような混雑の中で、
若者はちっとも陶酔せずにツイストを踊っている。踊ることで、やっとあの若さのもつ、底ぬけの無為のひとときをつぶしている。
彼らはまるで漂流者のように見える。家庭という岸辺からも、仕事という港からも遠く離れて、むなしく何かを求めている。
おとなから見て、頼もしい若者、すなわち余りに早くおとなの秩序の継承者たることを自らに課した若者に、おとなは奇妙な
不信をおぼえる。そんな若者は、どこか痛ましい、さらにいけないことにはどこか病的にすら思えるのである。若者の健康は、
獣の健康であっていい。エネルギーという、便利なことばがある。若者にも、しばしばこのことばがむすびつけられる。
だがこのことばのもっている危険の味わいには、わざと目をつむっているのではあるまいか。エネルギーの源は、いのちである。
そしていのちそのものは、善にも向かうかわりに、悪にも両かう。エネルギーはいのちを自己否定する可能性すらはらんでいる。
若者はいつの世にも、おとなにとっては、危険な存在なのだし、またそうあるべきなのだ。
いつかは君らにも金ができるさ、といったところで、若者はなっとくしないだろう。若者はいま、金が欲しい。若者はいま、
楽しみがいる。若者は正義を求める。なぜなら、若者はいまを、生きている。
労働の場で、時には恋愛の場で、若者はおとなたちと時代をわかちあっている。だが、おとなの現在に、若者が自分の未来を
見るようになる時、ひとつの時代の成長はとまる。おとなは若者に未来を用意してやるべきでない。現在をこそ与えるべきだ。》
▼ 1970年に書かれた谷川俊太郎の『漂流者たち』である。当時、この文章を読んでいたら、どれほど慰められたかと思うのは
私だけでないはず。仕事は辛く、金は無く、自信も、先の見通しも無い。あるのは、心の奥の野望と他人からの視線の恐怖。
そこに「果たして、私に何が出来るのだろうか」の絶望がまとわりつき、心は焦りと虚無感が渦巻いていた。若い時は良かった!
など、振り返ればこそ言えること。これは当時の心象風景そのもの。そして、今は家の中の漂流者? (>_
01月28日(火)
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