ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■4636, 年齢(よわい)は財産
* 年齢と財産の結び目から見える女の一生 ー「年齢(よわい)は財産」日本ペンクラブ編ー
以前、この本の中の、瀬戸内寂聴の以下の文章を読んで、何もかも洗いざらいに曝け出す作家の覚悟に圧倒されてしまった。
「作家は、大道に素っ裸で大の字になる覚悟がなければ」という彼女の言葉を思い出していた。(他の作家も似たような、
言葉を残している)両親の創業時の修羅の姿に似ている。 生きることが、だいたい、大道に素っ裸で寝ているようなもの。
で、自分の姿は見えないが、他人の素っ裸の姿を囁いているが、その実、それが自分への猛毒になっていることが解らない!
《 私は二十六歳の真冬、夫と子供の家を出奔した。その時、夫は、私の着ているオーバーもマフラーも脱いで行けと路上に
追いかけてきていった。尤もだと思い、その場ですべてを脱ぎ、着のみ着のままで歩きだした。 夫の声が追った、財布も
置いて行けと言う。 ちょっと考えたが、やはり尤もだと思い、それをきちんと畳んで路上に置いたオーバーの上にのせた。
私はふり向かず、電車の線路づたいに、ひたすら歩きつづけた。
私の人生再出発はこうして無一文で始まった。線路を、一時間ばかり歩いて、東京に嫁いでいた故郷の女学校の友人の家に
たどりつき、彼女が柱にぶっつけて割ってくれた素焼きの桃の形の貯金箱から、座敷にあふれ散った銅貨を全部借りた。
かき集めて、東京から京都まで鈍行の汽車賃になった。京都で東京女子大の友人の下宿に転りこみ、下着から靴まで借りて、
職を探した。ようやく勤めた小さな出版会社がつぶれ、京大の付属小児科病院の研究室に移った。そこで少女小説を書き、
投稿したところ、みんな採用され「ひまわり」の懸賞も当選した。正式に離婚出来たのと、故郷の父が死んだのをきっかけに、
背水の陣を敷いて上京した。 すべては行き当りばったりの身の処し方で、いつでも経済を度外視していた。
家を出たのが二十六歳で、京都暮しから上京したのが二十九歳であった。 少女小説で食べつなぎ、「文学者」で小説の勉強を
させてもらい、小田仁二郎と同人雑誌「Z」を出し、新潮社同人雑誌賞を受賞したのが、三十五歳であった。 大人の小説で
お金を貰ったのは、これが初めてであった。 この賞のおかげではじめての本を出してやるといってきた出版社があり、
私は大喜びで原稿を渡した。『白い手袋の記憶』という本は、再版までしたが、印税は一銭も貰えず、かえって社長に騙されて、
五万円だか十万円だか取られてしまった。ちょっと二・三日貸してくれといわれて出したのが返って来ない。
それでも本が残ったからいいと私は喜んいた。・・・ 四十二歳の末、中野本町通りの質屋だった蔵つきの家に引越した。
ここも借家だったが日白台のアパートより高い家賃がとどこおりなく払えた。 四十四歳で京都に家を買つた。西ノ京原町で、
西大路御池通りだつた。どの引越にも、男の問題がからんでいた。 京都の家はお金がなく、すべてを銀行で惜りた。
信用貸しの形で銀行が金を貸してくれるほど、私自身が財産になっていた。その時の保証人になっくれたのが、祇園の女将で、
私は二度しか会ったことのない人だった。五十一歳の時、さすがにタフな私もつくづく疲れて、その生活を一挙に破壊するには
死ぬか出家をするしかないと思いつめ、出家を選んだ。五十二歳の時、御池の家を売って、足りない分は銀行で借りて、
嵯峨野に寂庵を結んだ。」・・・ 》
▼ 瀬戸内寂聴の人生の粗筋が、それぞれの年齢と財産の網目で垣間見ることが出来る。三谷佐知子のペンネームで、
ポルノまがいの小説を書き賞を貰うが、「子宮作家」とまで呼ばれたるようになる。当時の彼女の顔の写真を
憶えているが、手練手管の水商売女という感がした。純粋な反面、それが自分の衝動に素直であるため、激しい人生に
なってしまう。それを小説のネタにする。自作自演の人生を純粋に生き抜いた結果が、死ぬか、出家の選択になる。
そして、あの穏やかな寂聴が、そこにいる。何人、男を潰したのだろう? 潰すというより、食べてきた、が本当だろう。
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11月25日(月)
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