ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■4536, 閑話小題 ー種銭の話
   * 山種証券の創業者の種銭
 自分が汗水たらし働いた金を種銭にしてこそ強い資金になる。 山種証券の創始者山崎種三の逸話がある。
《 米屋の小僧をしていて思いつく、米屋だからネズミが多くいる。それを保健所に持っていくと、一匹あたり僅かな報奨金が
貰えることを知り、ネズミを捕まえてコツコツと小銭を貯めて、親方の許可を得てヒヨコを飼って雑米を与え育て、卵を産ませて、
それを売って投資資金の種銭をつくり投資を始めた。》 これからして株式投資も、その延長で手堅かったのだろう。
 そういえば、父が子供達に似たような実践的な金銭哲学の教育をしていた。幼児の頃から、年末にお年玉を子供達全員が貰う。
それが楽しみで嬉しいが、正月が明けると、父が他からも貰った、お年玉袋を全て回収、それぞれの預金通帳に入金する。
そして、それぞれを金庫の中に保管しておく。年に一回だが、その通帳の残高を見せてもらう。それが十数年すると、それなりの
金額になる。子供の頃から自分の通帳を持たせることと、使わないで預金する生活習慣を持たせることが父の狙いであった。
目先の欲望を抑えて種銭をコツコツ積み上げる重要さを時間をかけ教えていた。家風は一見派手だが、生活は質実剛健。
地方都市の商家なら、何処も似たようなもの。そして高校の入学時に、10数万円の預金の通帳を渡されて、売買の手続きを
するから何か値上がりしそうな株を選べという。それから、毎日、日経新聞の経済欄を真剣に見るようになってしまった。
数ヶ月かけて、ある医薬品メーカーを見つけた。 当時、鼻風邪から慢性鼻炎になっていたが、特効薬が売り出すという
ニュースを見ていたためだ。それを5年ほど持ったが、期待ほどの値上がりはなかったが、それでも数割の値上がりがあった。
 しかし、その種銭が人生を変えることになった。 二十歳の頃、軽井沢のアルバイト先の山荘で、学生仲間4人と話していて、
外国に行く予定が無いのが私だけだった。他の三人は、さほど豊かそうで無かったが、要は行きたいという気持ちがあった。
当時は、まだ年間20万人しか渡航してない時代だったが、私も決心をすれば行けるかもしれないとの思いが出てきた。 
その時、思ったのが、自分の種銭である。 丁度、その頃、ある友人に「大学のサークルで、海外旅行研究会が一ヶ月の
欧州旅行の企画で参加者を募集しているが、一緒に行かないか」と誘われていた。しかし、当時の私にとって、まさか自分がと、
取り合わなかった。当時で40万、現在なら300万〜350万である。 しかし軽井沢で、「そうだ、私には20万円があった!
あと25〜30万、都合をつければ私でも行ける!」と、思い立った。アルバイト時期が終わって向かったのは、東京の寮ではなく、
実家のある長岡にした。 そこで列車の中で「頭の固い父に、そのまま頼めば断られる、なら母親に相談すれば良い」と。 
で、母に相談すると、「私が反対すると必ず逆を言うから、夕飯の時、話を切り出しなさい」と、賛同を得て、作戦を実行した。 
父親は知ってか、知らずか、母との共同作戦に乗ってしまった。その数日後に気づいたようだが、後悔した様子はなかった。
 その欧州旅行が、私の人生を変えてしまった。あの一ヶ月間の経験のカルチャーショックで半年間は、ただ呆然自失状態。
頭が変になる一歩手前。当時は現在ほど、情報も手軽に得ることが出来ない。それも決心して僅か一ヶ月で、予備知識はゼロ。
それがわたしには良かった。見るもの触れるもの全てが新鮮で、驚きの連続。エッフェル塔や、凱旋門、ローマのコロセウム、
スイスアルプス・・ その中で、遊び慣れた今まで知らなかった人種との接触。 何よりも小さな固定観念が
粉々になったことが、タイミングとしてベストだった。 まとまった種銭は、まずお金を資金に変えるという意味で、それ自身が
準備になってしまう。問題は用途のTPOSである。「夢を持つことと、長年の準備こそが、人生を決める」と、両親と、
学生時代の様々な経験から骨の髄から学んだことである。今回の最悪の事態でも、長年かけた万一に備えていたシェルターが、
我身を救ってくれた。
・・・・・・

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08月17日(土)
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