ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■4435, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか −5
ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー 前野 隆司著
* ルート4:主観的時間は幻想だと理解する道
ーまずは、この概要を主観的にまとめてみる。ー
≪ 客観的な「今」と主観的な「今」の違いからみると、客観的時間は、時間が一定速度で進むという前提に基づいている。
時間を秒、分、時間、日、月、年、ディケード(10年)、世紀といった絶対尺度で捉えるから、そのような結論になる。
客観時間は、一定速度で進む。それは、人がそのように定義したからに過ぎない。しかし、主観時間は、そのように
捉えるべきものではない。 主観的時間を考えるに、「今」を考えてみよう。「今」は、客観的には時間軸のある一点である。
客観的な今は時間の幅を持たない。どんなに短くても、時間が幅を持っていたら、それは今でなく、過去と未来になってしまう。
今とは、それが千分の一秒前と、千分の一秒後の間が、今になってしまう。 千分の一などどうでもよいと思いがちだが、
数学や物理の世界ではそれを認めない。ということは客観的今とは時間幅を持たない。 では、主観的な今とは何か。
「クオリアとして知情意を感じている、この今とは何か?」と問う以上、主観的な今は時間の幅を持っていると考えるべきだ。
ここに、時間的幅を持たない客観的な今と、時間幅を持つ主観的今。両者の定義は異なる・・・
私たちの心は、「今」しか考えられない。過去を思い出したり、未来を想像できるが、それらを行うのも「今」だ。
私たち人間には、過去も未来もない。実は現在もない。 過去のことを思い出せるが、エピソード記憶に残っていることを
思い出しているに過ぎない。過去はクオリアではない。単なる記憶だ。その過去の体験のクオリアに戻ることは出来ない。
人間には「今」しかないのだ。・・・ 僕たちは「今しか感じられない機械」。今と、生まれてから今までと、今から死ぬまでが、
あなたにとってのすべての時間なのだ。それだけだ。 主観的時間には、「死」なんてない。死ぬ瞬間は、もはや主観的な
「今」はない。死の直前には「今」を感じられるが、それは死の瞬間ではない。主観的には死はないのだ。生まれる前は
主観的には生まれていなかったのだから当然、時間は流れていなかったのだ。主観的な過去の時間は過去にさかのぼるほど
圧縮され、ついには物心ついたとき以前の時間は完全につぶれゼロになると考えるべきだ。未来も、先に行くほど圧縮される。
物心ついたときより前の時間がぺしゃんこにつぶれてゼロだったように、いつか死んだ後の時間もぺしゃんこのゼロだ。・・・
つまり自分が死んだ後の無限の時間、という想定も、過去と同様、見直すべきだ。 そんなのは無いのである。≫
▼ 当たり前のことを論じているが、これが自覚できないのが人間。過去も未来もゼロ、現在も幻想。ただクオリアがあるだけ。
「自分が死んだ後も世界は無限に続く」ということが、間違いである。死ぬと同時に今も、過去も未来も、ゼロに潰れる。
「今」しかないのに、過去や未来にこだわる人間は奇妙な生きもの。過去は記憶に過ぎなく、未来は予測に過ぎない。ならば
可能な限り、嫌なことを忘れ、良いことを繰り返して思い出すよう努め、今だけを考えること。所詮、未来も、過去もない。
それで良いのだと。亡くなった両親を考えてみると、その道理が理解できる。死んだ後の時間はペチャンコに潰れている。
クオリヤを感じている今こそ、生きているのである。だったら、私たちも、この「今」を生きるべきである。
主観的時間が幻想としてもである。今しか活き活き生きることが出来ないのである。ケセラセラと今を活き切るしかない。
・・・・・・
4061, 我事に於て後悔せず
2012年05月08日(火)
* 我事に於て後悔せず。 宮本武蔵「五輪書』より ー「人生を励ます黄金の言葉」中野孝次著 より
この本で著者は、五輪書の武蔵の「我事に於いて後悔せず」を取り上げている。一流のプロなら、引退後の後悔などせぬはず。
後悔するのは腐った?のような人物がするもの。 ー 以下の部分は、その辺りを微妙に書いてある。
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05月08日(水)
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